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プラトンの「ゴルギアス」

人はどう生きるべきなのか,どのような人が幸せで,どのような人が不幸せなのか.これらの重要な問いに明確な回答を与えるのが,この対話編である.

ゴルギアス
プラトン (著),加来彰俊 (訳),岩波書店,1967

ソクラテスに対して,政治家であるカルリクレスは,優れた者の生き方を次のようなものであると述べる.

つまり,正しく生きようとする者は,自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで,欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ.そして,できるだけ大きくなっているそれらの欲望に,勇気と思慮とをもって,充分に奉仕できるものとならなければならない.そうして,欲望の求めるものがあれば,いつでも,何をもってでも,これの充足をはかるべきである,ということなのだ.しかしながら,このようなことは,世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う.だから,彼ら大衆は,それをひけ目に感じて,そうすることのできる人たちを非難するのだが,それはそうすることによって,自分たちの無能を蔽い隠そうとするわけである.(中略)そしてまた,自分たちは快楽に満足を与えることができないものだから,それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども,それも要するに,自分たちに意気地がないからである.

けれども,始めから王子の身分に生まれた人たちだとか,あるいは,自分みずからの持って生まれた素質によって,独裁者であれ,権力者であれ,何らかの支配的な地位を手に入れるだけの力を具えた人たちだったとしたら,およそそのような人たちにとっては,節制や正義の徳よりも,何がほんとうのところ,もっと醜くて,もっと害になるものがありうるだろうか.

さて,この意見に賛成できるだろうか.それとも賛成できないだろうか.もし賛成できないなら,「そんなの,おかしい!」と言ってもどうにもならない.なぜなら,カルリクレスはそうだと主張しているのだから.カルリクレスに反駁して,そうではないということを,彼に納得させなければならない.そして,本当はどうであるのかということを,明らかにしなければならない.

この手続きこそ,ソクラテスがその生涯を費やした対話である.弁論術にも長けたカルリクレスとの対話を通して,ソクラテスは遂に以下の結論に達する.

幸福になりたいと願う者は,節制の徳を追求して,それを修めるべきであり,放埒のほうは,われわれ一人一人の脚の力が許すかぎり,これから逃れ避けなければならない.

カルリクレスは納得しないけれども,ソクラテスの誘導尋問(?)に沿って彼が認めた事柄を積み上げていくと,そういう結論が導かれると,ソクラテスは主張するのである.

本書「ゴルギアス」は,ソクラテスと3人の対話をプラトンがまとめたものである.最初は,高名な弁論家であるゴルギアスとの対話であり,弁論術とは一体何であるのかが問われている.次は,ゴルギアスに師事する若いポロスとの対話であり,誰が幸せで誰が不幸せなのかが明らかにされる.そして最後が,政治家カルリクレスとの対話であり,上述のように,人生をいかに生きるべきかが論じられている.

プラトンの対話編に登場する人物は実在の人物であるが,対話は実際に行われたものというわけではない.本書「ゴルギアス」の場合,ゴルギアスは当代の弁論家を代表する人物として,ポロスは権力志向の強い青年を代表する人物として,カルリクレスは政治家や権力者を代表する人物として,プラトンによって描かれている.もちろん,ソクラテスの言葉も,プラトンがソクラテスに語らせたものである.

実際,本書「ゴルギアス」には,数カ所,「仮に自分が死刑になることがあったとしても」とソクラテスが話すところがある.予言のようであり,これによって,ソクラテスの生き方・死に方が正しかったことを,プラトンは示そうとしたのだろう.

高名な弁論家であるゴルギアスとの対話

ゴルギアスとの対話において,ソクラテスは弁論術とは一体何であるのかを明らかにしようとしている.ソクラテスは,ゴルギアスの矛盾を指摘し,弁論術は技術ではなく経験であり,しかも迎合の術であると断じている.その上で,ソクラテスは,弁論術と弁論家について次のように述べている.

(迎合の術は)最善ということにはまるっきり考慮を払わずに,そのときどきの一番快いことを餌にして,無知な人びとを釣り,これをすっかり欺きながら,自分こそ一番値打ちのあるものだと思わせているのです.

(弁論家たちは)下らない者としてどころか,まるっきり考えにも入っていないように,ぼくには思われるね.

ゴルギアスに師事する若いポロスとの対話

ポロスとの対話においては,誰が幸せで誰が不幸せなのかが論じられている.ポロスは,不正に手に入れたものであろうが,その行使が不正であろうが,とにかく権力を手にして自分の思う通りにすることが自分の幸せであると考えている.そして,弁論家には力がないというソクラテスに対して,ポロスは指摘する.

彼ら(弁論家)は,ちょうど独裁者たちがするように,誰であろうと,死刑にしたいと思う人を死刑にするし,また,これと思う人の財産を没収したり,国家から追放したりするのではないですか.

そして,そういう力を持つことを羨ましく思わないのかとソクラテスに問う.なぜ羨ましくないのかということについて,ソクラテスとポロスの対話は続き,誰が幸せで誰が不幸せなのかについての結論へと向かう.

ソクラテス:それなら果たして,不正であることや,不正を行うことは,最大の悪であるという結論になるのかね.

ポロス:とにかく,そうなるようです.

ソクラテス:それからまた,裁きを受けるとういことは,その悪からの解放である,ということが明らかになったのか.

ポロス:おそらく,そうでしょう.

ソクラテス:しかしそれに反して,裁きを受けないのは,その悪をとどめることなのか.

ポロス:そうです.

ソクラテス:してみると,不正を行うのは,ただそれだけのことなら,もろもろの悪のなかでも,大きさの点で第二番目のものであるが,しかし,不正を行いながら裁きを受けないのは,本来,ありとあらゆる悪の中でも最大の,そして第一番目のものだということになる.

ポロス:そうらしいですね.

こうしてソクラテスはポロスに,不正を行う人のほうが不正を受ける人よりも不幸であることを認めさせる.このことから,さらに,弁論術の効用についての結論が導かれる.

ソクラテス:してみると,不正を弁護するという目的のためには,その不正を行ったのが自分自身であろうと,両親であろうと,仲間たちであろうと,子供たちであろうと,あるいは,祖国が不正を行っている場合であろうと,弁論術は,われわれにとって何の役にも立たないということになるのだよ,ポロス.

人はどう生きるべきなのか,というテーマを真正面から取り上げた対話編として,読み応えがあった.

© 2009 Manabu KANO.

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