「幸福について―人生論」を読んで自分の幸せとは何かを考える
肩肘張らずに,リラックスして読める本だ.ショーペンハウアーだけあって,他の著作と同様に,ゲーテ,セネカ,アリストテレスらの引用が多い.人類史に名を残してきた賢人たちは誰しも同じことを言っているのに,我々凡人は何千年経っても理解しない.
ショーペンハウアー,「幸福について―人生論」,新潮社,1958
幸福な生活とは何かと言えば,(中略)生きていないよりは断然ましだと言えるような生活のことである,とでも定義するのが精一杯であろう.
ショーペンハウアーによれば,幸福の第一条件は健康である.
健康な乞食は病める国王よりも幸福である.
われわれの幸福の九割まではもっぱら健康に基づいている.
健康な身体を持っていれば,さらに精神的な幸福も手にすることができる.幸福には朗らかさが大切であるとショーペンハウアーは述べている.
健全な身体に宿る健全な精神が,われわれの幸福のためには第一の最も重要な財宝である.
直接,現在において幸福を与えるものは朗らかさ以外にない.
朗らかさは無上至高の財宝である.
ところで,朗らかさにとって富ほど役に立たぬものはなく,健康ほど有益なものはない.
ここで,朗らかさにとって富は役に立たないと言っているが,ショーペンハウアーは財産を持つことは良いことだとも言っている.それは,困窮した生活では生きる糧を得るのに忙しくなり,余暇を持てないからだ.優れた人物が望むものとは何かについて,こう書いてある.
自己の精神的な能力を磨きあげて内面の富を楽しむことのできるような自由な余暇を望むだけである.
俗物とは精神的な欲望をもたない人間である.
そして,アリストテレスの「幸福は余暇にある」という言葉,「ソクラテスは余暇を人間の所有するもののなかで最も素晴らしいものと讃えた」という伝え,さらにゲーテの「才能を授かり才能に生まれついた者は,この才能に生きることが最も美しい生き方だ」という言葉を引用している.別の見方をすれば,余暇の使い方でその人物の程度がわかるとも言える.ところが,現実の社会には,余暇に精神的な能力を磨きあげるのではなく,退屈しのぎにくだらないものに興じる者が多い.本書「幸福について」において,ショーペンハウアーは社交をボロクソにけなしている.
誰でも精神的に貧弱で何事によらず下等な人間であればあるほど,それだけ社交的だということが知られるであろう.
人の社交性はその人の知性的な価値にほぼ反比例している.
上流社会の飲めや歌えやの生活ほど,幸福への道としてばかげたものはない.
われわれの接触する人間の大多数は道徳的には悪人,知的には愚鈍か頭が狂っているから,社交は危険な,むしろ有害な傾向の一つである.
ベルナルダン・ド・サン=ピエールが「食餌の節制はわれわれに肉体の健康を授け,友好の節制は精神の平静を授ける」と言ったのは,適切かつ名言である.したがって,早くから孤独になじみ,まして孤独を愛するところまできた人は,金鉱を手に入れたようなものだ.
おいおい,そこまで言うか.たとえ真実だとしても...
ともかく,結果的に,必然的に,優れた人物は孤独を愛さざるを得ないことになる.本書でショーペンハウアーが力説しているのが,まさに孤独の価値だ.健康で孤独なのが良いと.裏返すと,人類の5/6を占める下等な人間どもを徹底的に嫌っている.下等な奴らとは接触するなと.こっちまで下等になってしまうと.おいおい,金八先生に怒られるぞ!
では,幸福になるためにはどうすべきか.
私はアリストテレスが「ニコマコスの倫理学」で何かの折に表明した「賢者は快楽を求めず,苦痛なきを求める」という命題が,およそ処世哲学の最高原則だと考える.
これがショーペンハウアーの結論である.快楽を求めてリスクを高めるような生活をすると,痛い目に遭うぞと.そうではなく,苦痛を感じずに済むように控えめに生きよと.また,現在を,今を大切にせよとも強調している.
過ぎたことに腹を立てたり,未来のことを心配したりして,せっかくのよい現在のひとときをしりぞけ,あるいは軽率にもこれを台なしにするのは,全く愚かな話である.
一日一日が小さな一生なのだ.毎日毎日の起床が小さな出生,毎朝毎朝のすがすがしい時が小さな青春,毎夜の臥床就寝が小さな死なのである.
今を大切に生きよとは多くの賢人の述べるところであるが,本書「幸福について」では,セネカの「その日その日を一生と見よ」という言葉や,ゲーテの「爽快の気,至ること稀なり,心してとらえよ」という言葉が引用されている.
さらに,幸福な人とは結局,自分に満足できる人のことだとも言っている.これこそ,もはや言い尽くされた感のある言葉だ.古典であろうが,引き寄せ系であろうが,スピリチュアル系であろうが,誰もが,今に満足せよと諭している.アリストテレスの「幸福は自己に満足する人のものである」という言葉,キケロの「全く自分自身に依存し,自己のうちだけで一切合財の具わった人ならば,完全に幸福でないなどということはありえない」という言葉をショーペンハウアーは引用している.
他人を羨んでいるようでは決して幸せにはなれない.「自分を育てるのは自分―10代の君たちへ」(東井義雄,致知出版社)のコメントにも書いたが,あれが欲しい,これが足りないと,ないものねだりの際限ない強欲のために,自分を自分で不幸にしている人がどれほど多いことか.ショーペンハウアーはこうも言っている.
頭脳次第で,世界は貧弱で味気なくつまらぬものにもなれば,豊かでおもしろく味わい深いものにもなる.たとえば他人の生涯に起こった痛快な出来事を羨む人があるが,そういう人はむしろ,他人が痛快な出来事として描写しうるだけの重要性をその出来事に認めたというその把握の才をこそ羨むべきであろう.
人間の才能については,次の言葉が印象に残った.
誰しも自分以上のものの見方はできない.
自分自身の知力に応じて他人を把握し理解しうるにすぎない.
これは常日頃から実感していることだが,逆に,誰か優れた人物が私のために語ってくれた言葉でさえも,私の劣悪な知力のために,私が全く理解できていない可能性は大いにあるということでもある.そうやって,多くの言葉を無駄にしてきたのだろうなと悔やまれて仕方がない.いや,過ぎたことではなく,現在が大切なのだから,ますます知力向上に努めよう.そういう観点でも,付き合う本や人は選ばなくてはいけない.人選びという点では,ショーペンハウアーの次の言葉は戒めになる.
われ知らずストーヴや日向に近づくと同様に,誰しも本能的に,心地よい優越感を与えてくれそうな相手に接近する.
全く同意できない部分も少なからずあるが,面白く読める本だ.
ショーペンハウアー,「幸福について―人生論」,新潮社,1958
© 2020 Manabu KANO.
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