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専門家の責任が問われている今「知識人とは何か」を考える

新型コロナウイルスが世界を脅かし,社会を根底から変えてしまいそうな状況の中,専門家の発言が大きな意味を持つと同時に,その発言が強く批判されることも多い.そんな今だからこそ,専門家の役割,知識人の役割について,考えてみることが重要だろう.そう思って,今回は,サイードの「知識人とは何か」を取り上げてみる.

エドワード・W・サイード(Edward W. Said),「知識人とは何か

本書「知識人とは何か」は,イギリスBBCラジオのリース講演の講演録である.かなり慎重に推敲されたはずの講演原稿であるため,読みやすくなっているはずだが,それでもなお,かなり難しい.というのも,新渡戸稲造の「武士道」みたいなもので,その膨大な引用を凡人は理解できないからだ.それでも,趣旨くらいは読み取れるだろう.まあ,「読む」とか「理解する」の定義とレベルは多様なので,自分のレベルで読んで理解するほかない.このことを,リヒテンベルグは次のように言っている.「著書なんていうものは鏡のようなもので,猿が覗けば,天使の顔は映らない

「知識人とは何か」を読んで感じるのは,やはり,著者がパレスチナ人であり,米国市民であるという事実が色濃く反映されているということだ.アメリカを筆頭とする国際社会から虐げられているパレスチナ人を表象=代弁(representation)しようという意図がある.それを,かつての大国による植民地政策や米国のヴェトナム戦争などと絡めながら一般化し,弱者を表象=代弁するのが知識人の責務であるという普遍化へと導いている.

本書で主張されていること自体は,至極当然のことであると思う.まさに正統派.いや真面目な話,あたりまえのことじゃないか.単に,あたりまえのことができない輩が人間社会には昔から今に至るまで数多くいるというだけで...

わたしにとってなにより重要な事実は,知識人が,公衆に向けて,あるいは公衆になりかわって,メッセージなり,思想なり,姿勢なり,哲学なり,意見なりを,表象=代弁し肉付けし明晰に言語化できる能力に恵まれた個人であるということだ.このような個人になるにはそれなりの覚悟がいる.つまり,眉をひそめられそうな問題でも公的な場でとりあげなければならないし,正統思想やドグマをうみだすのではなく正統思想やドグマと対決しなければならないし,政府や企業に容易にまるめこまれたりしない人間になって,みずからの存在意義を,日頃忘れ去られていたり厄介払いされている人びとや問題を表象=代弁することにみいださなければならないのだ.

知識人にとってみれば,自分自身の民族的・国民的共同体の名のもとになされる悪には眼をつぶり,あとはただ自国民を擁護し正当化しておくほうが,気が楽であるし,そのほうが人から憎まれずにすむ.このことは非常事態のときや危機的状態のときに,とりわけよくあてはまる.フォークランド戦争やヴェトナム戦争のとき,国家の戦争行為のお先棒かつぎが横行したため,戦争の正当性に疑念を表明しようものなら,まるで裏切り行為ででもあるかのようににらまれた.たしかに知識人にとっては,これ以上,人から嫌われる行為はあるまい.だが,たとえそうであるとしても,知識人は,集団的愚行が大手をふってまかりとおるときには,断固これに反対の声をあげるべきであって,それにともなう犠牲を恐れてはいけないのである.

さらに,知識人と専門家の関係についても論じられている.知識人は専門家に成り下がってはいけないと.

知識人が,論争とは無縁の人畜無害の愛想のよい専門家といったような人物になりさがってしまうことは絶対に避けるべきであるが,かといって,予言者カッサンドラのように,独善的な人物としてけむたがられるだけで,耳を傾けてもらえないような人物になるべきでもないというのが,偽らざるところではないか.

サイードが非難する専門主義的知識人の姿とは以下のようなものだ.

今日,知識人のありようをとくに脅かすのは,(中略)わたしが専門主義と呼ぶようなものなのだ.専門主義ということでわたしが念頭においているのは,たとえば朝の九時から夕方の五時まで,時計を横目でにらみながら,生活のために仕事をこなす知識人の姿であり,こんなとき知識人は,適切な専門家としてのふるまいにたえず配慮していることだろう−自分が波風をたてていないか,あらかじめ決められた規範なり限界なりを超えたところにさまよいでてはいないか,また,自分の売り込みに成功しているか,自分がとりわけ人から好感をもたれ,論争的でない人間,政治的に無色の人間,おまけに「客観的な」人間とみられているかどうか,と.

自分が所属する組織内における自分自身の姿を点検してみよう.別に波風を立てるつもりはないが,やるべきことをやろうとすると,結果的に波風が立っていることもある気はする.さまよいでてはいないかなんて全く気にしていない.自分の売り込みの成否は大いに気にしている.社会に貢献する研究をすると宣言しているので,貢献できているかどうかは大問題であり,それは売り込みの成否に大いに関連している.別に論争的ではないつもりだが,そうは思われていないだろうと自覚している.云々.

さて,問題は,このように自分自身を点検するときの視野の広さにあると思う.例えば,私が上述したような内容は,大学に所属する研究者という視点での話であって,それ以上のものではない.自分が所属するのは,大学だけでないし,学界だけではないし,日本だけでもない.一人の人間として人類社会に属している.そういう視点で,知識人として為すべきことは何かと問われているのだろう.

サイードは,曖昧にではなく極めて明確に,知識人が為すべきことを宣言している.

知識人の役割とは,国際社会全体によってすでに集団的に容認された文書である世界人権宣言に記されている行動基準と規範を,すべての事例にひとしく適用することなのである.

知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは,見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことである.

見ざる聞かざる的な態度に逃げこむなというのは,かなり厳しい叱責である.これこそ,あたりまえのことだが,できないことだ.知識人という範疇ではないが,世に偉人と言われる人は,例えばシュバイツァー博士やマザー・テレサなどは,結局,見ざる聞かざる的な態度に逃げこまなかった人達とも言えるだろう.だから,大人も子供も偉人伝を読まないといけない.精神を鼓舞するために.いや,本書とはあまり関係ないが...

わたしがこの連続講演で強調してきたのは,知識人にとって,情熱を燃やして関与することが,リスクをひきうけることが,真実を暴露することが,主義や原則に忠実であることが,論争において硬直化しないことが,世俗のさまざまな運動に加担することが,とにかく重要であるということだった.

いっぽうの側を善であり,もういっぽうの側を悪と決めつけるような分析は,真の知的分析においてはつつしむべきなのである.そもそも,こちら側やあちら側といった,側(サイド)の発想は,複数の文化が争点となるところでは問題がありすぎる.

知識人として自分には,ふたつの選択肢がある.ひとつは,最善をつくして真実を積極的に表象することであり,いまひとつは,消極的に庇護者や権威者に導いてもらうようにすることである,と.ちなみに,世俗的な知識人にとって,庇護者なり権威者とは,あの神々,つまり,いつも失敗する神々(大衆)なのである.

知識人であるかどうかは別として,人の道に背くような生き方だけはしたくないものだ.

エドワード・W・サイード(Edward W. Said),「知識人とは何か

© 2020 Manabu KANO.

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