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【ふしぎ旅】大竹与茂七を巡る

新潟の怨霊 

さて、日本三大怨霊というと菅原道真・平将門・崇徳天皇であるが、越後国、新潟で、三大怨霊をあげようとすると誰であろうか。

 鬼と怖れられた黒鳥兵衛などは、真っ先に入るのかもしれないが、そのスケールの大きさは後に続くものが、中々見当たらない。
 近世に蝸牛となって村を祟った橋本左内なる者がいるが、他には誰がと言うと、これも中々に難しい。
 ただ、いずれにせよ、この者の名前がでることは間違いないだろう。
 大竹与茂七である。

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大竹与茂七について中之島につたわる話

 大竹与茂七は、現在は長岡市中之島の名主であった。
 宝永元年(1704年)というから、徳川綱吉の頃になるだろうか。

 信濃川、刈谷田川が増水し、堤防が決壊する寸前に、自分の山の木を伐り出して堤防の補強を行い、不足分は庄屋所有の山と藩林を伐採して使用、水害を未然に防止した。

 この処置に、庄屋は反発。勝手に藩林を伐採したと奉行所に告発するも、この時は与茂七は無罪となった。

 しかし、これにて与茂七との庄屋との確執が生まれた。
 宝永六年(1710年)、何年も続いた凶作の時、百姓を代表して、与茂七は庄屋から百五十両を借りて、村人たちを飢餓から救った。

 翌年、豊作になり、借金を返すことができたが、借用証文を返してもらうのを忘れていた。すると庄屋は翌年、借金の催促をした。
 与茂七は怒り、庄屋の二重取りを新発田の奉行所へ訴えた。
 しかし、証文が無いので、どうすることも出来なかった。

 その内に庄屋は役人を買収し、洪水の時の藩林を無断で伐採したことを持ち出して、逆に与茂七を訴えた
 役人は金をもらった手前、よく調べもせず、与茂七に罪を認めさせようと、歯を一本、また一本と抜いて、責め立てたが、与茂七は断固拒否。
 ついには正徳三年(1713年)6月、38歳の若さで打ち首獄門の刑となり、散った。
 首を切られる直前「七代七生まで祟り、呪い殺す」と言って死んだという。

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 この首は、中之島の中心部にさらされた。
 後年、村人たちは、この義民大竹与茂七の徳を忍び首をさらした場所にお堂を建て、その姿に似た地蔵尊をつくって、ここに祀った。
 これが与茂七地蔵尊で、今も献花や香煙が絶えない。

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 すぐ傍らには、小さな墓と、不釣り合いなほど大きな義民大竹与茂七の墓碑がある。

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 また、昭和五十三年(1978年)には地蔵堂のすぐ近くにある光正寺境内に与茂七生誕三〇〇年を記念して「与茂七の首塚」が建立されている。

大竹与茂七について新発田につたわる話

 中之島は当時はすぐ近く(10キロほど)の長岡藩でなく、新発田藩であったそうでおよそ80キロほど離れており、地元と、新発田ではその扱いがまるで違っており、中之島では、義民、英雄として扱われているが、処刑された新発田の地では、まさに怨霊として扱われている

 与茂七が処刑されてからも間もなくして与茂七の亡霊が、青い火の玉となって新発田の街中を飛び回ったという。
 そして、史実に残る限りでは最初は享保四年(1719年)、与茂七の七回忌にあたる年に、与茂七が罪人とされた裁きのあった同じ日に新発田城下で大火が発生
 与茂七の遺体を葬った寺より出火し、燃えた寺の扉が家老屋敷まで飛んでいったとある。

 それも与茂七の処刑に関わった人の家は、どんなに遠くても飛び火して焼け、処刑に反対したり、同情的だった人の家は、火災の中心にあっても、類焼をまぬかれたという。

 さらには、その火事と前後して、与茂七が断罪となる原因となった庄屋が怨霊に悩まされ死亡
 新発田藩家老も死亡
 当時の藩主、溝口重茂、直治が二代続けて若くして亡くなった
 さらには、その子供達も次々と亡くなった。

 人々は「村のために尽くした義民を訃報に殺した祟りだ」と怖れた。

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そのため新発田藩では、諏訪神社境内にある藩への功績のあった者を祀る五十志霊神社に与茂七を祀り慰霊

それから、藩内には火の玉は現れなくなったという。

 しかし、その後、新発田藩が無くなっても明治二十八年(1895年)、与茂七が斬首された命日に大火発生
 この時は家老の子孫の家に飛び火、庄屋が城下の定宿としていた宿屋が焼けたなどと言われている。

 さらには昭和十年(1935年)にも大火。
 この時は与茂七が刑場にひかれて行く際に、わらじを与えた者の家だけが、周囲の家が被災する中で焼けなかったと噂になった。
 このため、新発田では大きな火事があるたびに「与茂七の祟りだ」などと古い者は言っていたという。

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今も残る大竹与茂七の跡

 さてさて、処刑されてから300年以上が経っているが、未だに新発田には、この大竹与茂七関連の史跡が多く残っている。
 もちろん現在では祟りより、義民として伝えられることが多いが、未だにどこかに祟りを恐れているような気もする。

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 諏訪神社境内の五十志霊神社は今もあり、毎年斬首された6月に鎮魂の儀を営んでいるという、
 写真でしか、見たことが無いが、この中には斬首された与茂七のように首の無い地蔵が安置されているという。

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 この、他にも与茂七が殺されたとされている中曽根には、与茂七鎮魂の地の碑(以前は刑死の地とされていたという)がある。

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 隣には、地蔵様があるが、身代わり地蔵と呼ばれ、うっかりと殿様の行列に立ち入った子供が、この地蔵様の陰に隠れて逃れられたという伝説があるらしい。この話も義民である与茂七にまつわる話っぽい。

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このような少し悲しい碑が住宅街の一角にあるという辺りに現代でも伝説が根付いているのだなと感じさせる。

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 また、同じく中曽根にある中曽根神明社も、もとは与茂七に縁が深い豊栄の地にあった石動神社だったが、新発田の人の要望により(祟りをおそれたのかもしれない)、中曽根に移されたようである。

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与茂七が、刑場に連れて行かれる与茂七を、人々は橋の上で涙を流しながら見送ったというが、その地はなみだ橋跡として、その名を残している。

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 さらに、そこから進むと、「念仏塚」と呼ばれている場所がある。 
 商業施設の間をまたがるような形で、それはあり、明らかに似つかわしくない
 それでも、それを移転しないのは、明確な理由があるのであろう。
 おそらく、この場所が与茂七が斬首された処刑場では無かったのではないだろうか。
 与茂七ばかりでなく、多くの者が処刑されたということを考えると、その場所に触ることすら、ためらわれるだろう。

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念仏塚には、このような石も祀らているが、これもやはり首の無い地蔵様のようにも見える。

 こんな形で、300年以上経った現代においても未だに大竹与茂七の史跡は、そこかしこにある
 それだけ、義民として、民衆に慕われたからであろう。
 祟りという扱いにも、結局、新発田藩の奉行所を含め、関わった者がみな後ろめたさがあったのかもしれない。

 怨霊などと書いたが、それは人間の心の中の後悔やら無念、哀惜などが、積み重なったもので、何かが起こった時に、それが自分たちを責め立てるのであろう。
 ならば、生きる限り、そのような気持ちが無いものなど、聖人君子か、サイコパスかであろう。
 だからこそ、人間は祟りを恐れるのだ。

 

 

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