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【ふしぎ旅】伴百悦

 新潟県新潟市大安寺。
 ここには、戦前、戦後と文壇で活躍し、無頼派とも呼ばれた作家坂口安吾の墓がある。

 戦後「堕落論」で、彼は「人間は生き、人間は堕ちる。それ以上に人間を救う便利な近道はない。」と言い、「美しいまま死のうとする武士道なるものはまやかしにすぎない」と語った。
 それでは、彼の大きな墓より、少し歩いたところ、民家の一角にあり、彼の生きていた当時は、苔むした自然石が置かれていた墓を見ていたとしたなら、何を考えただろう。

 その墓の主の名は伴百悦。戊辰戦争が終わり、坂口安吾の本家、坂口津右衛門のところに身を寄せていた会津武士であった。

伴百悦について

 伴百悦について語ることは、なかなかに難しい。
 明らかに明治維新の負の側面、代表のような人物だからだ。
 そのせいか、彼の評価は、なかなかに定まらず、上記したように彼の墓は、1960年代までは、墓石もなく、ひっそりとしたものだったらしい。
 2018年の会津戊辰150周年事業の時に、会津の偉人として、名前が挙げられているが、それまでは、あまり名前を見ることも無かった。
 学校の教育では、まず名前を見ることもあるまい。私自身も、それこそ小学校時代の修学旅行をはじめてとして、何度も会津を訪れているが、その存在を知ったのは21世紀になってからだ。

 伴百悦は、会津藩上級藩士500石の名家に生まれる。
 戊辰戦争当時は、越後などで活躍していたそうで、小柄で隻眼ながらにして「釈迦」と仇名がつくほど武芸の達人であった。

腐りゆく戦死者

 明治元年、一か月にも及ぶ籠城戦が終わり、9月若松城が、降伏開城した。
 10月には民政局が置かれ、この地を一時担当することになった。
 しかし、これで戦が終わったわけではない
 むしろ、会津藩にとっては、これから戦いだったのだ。

 落城後、西軍当局は「今回の戦死者に関して、一切の手出しを許さず。もし、手出しすることがあれば厳罰に処す」という命令が出された。
 そして、西軍の戦死者は立派な「官軍墓地」に埋葬されたが、他の死体はむなしく山野に放置された。
 会津藩士らの遺体は、何か月も放置され、腐敗し、カラスや野犬などに食い荒らされていたままであったという。

罪人として扱われる死体

 季節は移り、翌春、会津の雪も消え、放置された死体の臭気が耐え難いものとなり、民政局の方でも、ようやく対処せざるを得なくなった。
 はじめ、これらの死体は寺院ではなく、罪人塚に埋葬され、またその作業にあたる者も、被差別部落の人々とされていた。
 
 「殉死した会津藩士が、罪人とおなじ扱い」ということに、悲憤した者達が嘆願し、なんとか埋葬場所に関しては、罪人塚でなく、七日町阿弥陀寺、西名子屋町長命寺の2寺院とするという認可を得ることが出来た。

 しかし、埋葬作業は被差別部落の者であり、その埋葬作業も、まるで瓦礫か、粗大ごみでも取り扱うかのように穴に放り投げるという事務的で乱暴なものだった。
 彼らにしてみれば、勝手に武士たちが戦争をし、あげくに戦後は、その大量の遺体、それもとんでもない異臭を放つ腐乱死体を、彼らが処理するという理不尽な命令なのだから、ぞんざいな扱いになるのも当然のことだろう。

 さて、ここまで会津戊辰後の状況を書いてきたわけだが、伴百悦はまだ登場していない。
 にも関わらず、冒頭に彼について書くことが難しいと私が言った意味が分かるだろう。

 とにかく、戦後処理がひどいのだ。
 戦死したものの遺体を半年以上も放置するなど、現代でも、もちろん、当時でもありえないことだったろう。
 それも、同じ国の中の内戦でこれなのだから、やれやれ平和のなんと、難しいことか。
 さらには、部落民への理不尽な扱い。まったくもって、やりきれないことであるが、これが戊辰戦争後の現実だったのだ。
 さすがに、このような残酷なことがあったと、それも同じ国民同士であったとは語りづらいだろう。かくして、この出来事は近代化という歴史の隅へと押しやられ、伴百悦の名も語られることは少なかったのである

被差別部落民との交渉

「仲間の死体が、粗雑に扱われる」それを何とかしたいが、身分制度が厳しい世の中で、被差別部落民との関りを持つものはいない。
 「なんとか、交渉できれば」そう考えた時、皆の頭をよぎった存在、それが伴百悦である。

 彼の家は、代々鷹狩を担当しており、鷹のエサは鳥獣の肉だったため、それを扱う被差別部落民との接触が例外的に許されていた。
「被差別部落民の代表に「遺体の取り扱いをもう少し丁寧にしてもらえないか」と交渉してもらえないか」

 藩士たちのその願いに対し、伴はすぐ快諾した。
 早速、交渉を試みると、彼らは「少人数でのきつい作業で、手当もろくにもらってない。とにかく、コトを早く済ませて帰りたいのだ」とのことだった。
 苦労して、金銭は千両、工面した。しかし、その大事な金を被差別部落民に、ただ渡すだけでは意味がない。
 実際に働いている人々に、効果的、効率的にわたるようにしなければならない。 
 しかし藩士たちは、埋葬作業の現場に行くことすら許されていない。

被差別部落民となる伴百悦

 と、すると方法は一つ。
 藩士の誰かが、被差別部落に入り込み、彼らの一員となり、一緒に作業しながら、金を渡すしかない。
 しかし、それは当時の身分制度の中ではタブーだ。そんなコトをして、当局に知られたら、反抗の心ありと斬首ものだろう。

「誰が、できるものなのか」藩士の中では「誰も出来ないであろう」という無言の答えの時間が流れた。

 その時に「私がやろう」そう言ったのは、やはり伴であった。
 最初にも記したが、伴家は500石取りの名家だ。その者が命を省みず、被差別部落民にまじり辛い遺体埋葬をすると言ったのだから、皆が驚いた。
「戦友の遺体を埋葬して殺されるのであれば、それもまた武士の道」
 己が武士であるためには、この命を捨て、身分すらも捨てなければならないという、そんな信念が彼を動かしていたのだろう。

 そんな伴の心意気を聞き民政局の中にも心を動かす者がいた。
 伴は後程、戦死者遺体の「改葬方」に民政局より任命された。つまり、公認となったのである。
 この公認をうけた後、伴は領内各地に出張して、遺体を集め手厚く葬った。 
 その数、明確な部分で、1634体、16か所となる。
 その中でも最大の所が阿弥陀寺で1281体が改葬されている。
 埋葬作業は二か月以上もかかり、伴の身体からはしばらくは屍臭がとれなかったという。

 今でも、阿弥陀寺には春、秋の彼岸には供養会が行われており、戊辰の魂を手厚く弔っているが、このような苦労があったことを詳しく知る者は地元の者以外は少ない。

 ともかくも、阿弥陀寺での大規模な埋葬が終わり、仲間の遺体を弔えたと満足して家路に帰る伴であった
 話がここで終われば伴百悦は、自らの身分を落としてまで、同士の魂を弔ったと、美談で終わるところであるのだが、話はまだ終わらない。

 ここからが、さらに伴百悦を語るのが難しくなるところなのだ。

久保村文四郎なる男

 さて、阿弥陀寺の埋葬地には、当初「殉難之霊」という墓標と、ささやかな拝殿が建てられたという。
 ところが、民政局よりすぐに、それを撤去せよという命令、呼び出しが来た。

 伴百悦らも「改葬方」として呼び出された。
 この時、詰問にあたった役人に久保村文四郎なる越前藩の者がいた。

 伴が「殉難之霊という文言や、拝殿をつくることが何故悪いのか、会津藩の戦死者は罪人ではない」と訴えると久保村はこう答えたという。
「朝敵となって死んだ者が、殉難などという言葉を使える身分か。拝殿など、誰が朝敵を拝むのか。罪人ではない?朝敵は罪人以下だ。お前らは、身をわきまえるとよい」

 この言葉に怒りに震えながらも伴は「すべては国のためにと行動したもの、死した者に敵も味方も無し。武士の情け、その前に人として、その霊を弔ってやるのは当然だと思わないだろうか」と問うたが、久保村はたたみかけるように「それはお前らから言うことではない。つけあがるな」と答えた。

 もともと、久保村は会津での評判は殊更に悪かった。権威を笠に着て、やりたい放題。
 無実の者をとらえては、処刑するという噂すらあった。
 伴も、その噂を皆から聞いていたところで、この文言だから、その怒りは想像できよう。

 ましてや久保村は越前松平の者だった。
 かつては、幕政の重鎮的立場で、会津藩に京都守護職という貧乏くじを無理やりにひかせた。
 だというのに、いつの間にか、薩長側につき新政府の方のお偉方となっている。会津藩士として裏切られたという思いが強いだろう。
 次第に、伴の心の中には憎悪とも、恨みとも言えるような感情が芽生えていった。

久保村の帰藩

 季節は移ろい春から夏へと変わった。
 この頃には、若松県が生まれ、正式な県の役人もそろった。
 急場のリリーフであった民政局は役目を終え、帰国の準備へとかかっていった。

 伴の方では、これまでの作業の報告書作成を急いでいた。どこに、何体の遺体を埋葬したか、どのような壇を築いたか。図解付きで説明した
 報告書は8月の内に終了したが、それが終わると、思い出すのは腐乱した戦死者の山、そしてそれを罪人以下と見下した久保村の存在であった。
 蓄積された久保村への負の感情は、殺意へと変化していた。

 そして、明治2年8月早朝、久保村四郎は民政局での役目を終え、若松城下を離れ、越前福井へと戻ることとなった。
 元々、久保村は越前では15石ほどの下級藩士であった。それが、会津では、皆が恐れ、憎むほどの権力を持っていたのだから、その増長ぷりが目に余るのは容易に想像がつく。
 そして、それだけの経験を経て、故郷へと戻るのだから、意気揚々で、帰りの駕籠へと乗り込んだであろう。

 会津より越前までは、まずは越後街道を、坂下、野沢と進み、阿賀野川を下り、越後へ、そこから海岸沿いに越中、加賀と進み、ようやく越前に到着する。

 そんな長い道のりを思いながら、久保村は、自分が会津で成してきたことを考えていたのだろうか。
 駕籠は、坂下を越え、気多宮くらいから山道を行くことになる。それは現在も変わらない。
 太陽が高くなり、夏の日差しが照り付け、気温が上昇する。
 山道を縫うような只見川の川風だけが清涼であったろう。

束松事件

 越後街道を只見川を過ぎると、片門となる。そこから、ダラダラと台地を過ぎ、また山道へ。
 束松峠より別茶屋、野沢へと到達する。この辺りは、今でも国道を行くと、地名が標識で出ているので、想像しやすい。

 さて、夏の暑さも最高潮となり、久保村を乗せた駕籠が、これから山道へと差し掛かろうという時、傍らの草藪より駕籠の前に抜刀した侍が現れ出た。
 気づけば、後方よりも同じように一人と駕籠をとり囲んでいた。
 駕籠かきたちは、駕籠を降ろし、怖れ慌てて、逃げていく。
  武士たちは、それには興味が無いように、駕籠の中の久保村に、駕籠から降りよと言い放つ。

 駕籠を囲んだ武士の中にいた隻眼の小兵、それこそ伴百悦であった。
 久保村が、越前に戻る日を聞き、あらかじめ街道で待ち伏せしていたのである
 「死んだ同士を罪人以下とし、会津の者を貶めたその罪は重く、死に値する」
 そんな気持ちだったのだろうか。
 おそらく、駕籠ごと、駕籠かきと共に殺さなかったのは、伴の武士の矜持というものだろう。
 久保村も、また武士であるなら、抜刀し、対決するくらいの余裕を与えようとしたのでは、と考えられる。

 しかし、刀を抜いたところで、武芸の達人と怖れられた伴と、戦場経験もあまりない久保村とでは格が違う。あっという間に久保村は切り殺された。
 久保村の死体の上には「天に代わって、之を誅す(代天誅之)」と書かれた札が置かれたという。
 この久保村文四郎暗殺事件を、殺された場所の名前より「束松事件」と言う。
 今でも、その辺りは叢で囲まれ、殺した後に伴が刀を洗ったという小川もそのままであるという。

 この「束松事件」が、伴百悦を語りにくくしている原因のもう一つで、とにもかくにも、彼がしたことは、一般的に解釈するならば怨恨による、下っ端役人の殺人ということになる。

 久保村が、私財を肥やしていたなどの悪事を働いていればまだしも、彼はそこまでの悪党ではなく、ただ単に「嫌な人間」だったのだから質が悪い。
 物語としては、どうにもオチの付け所が悪いのだ。
 もちろん、この事件が密かに語り継がれたというところから、鬱憤を晴らした会津の民も多くいたのだろうが。
 かくして、伴百悦は、この事件により、武士ではなく、殺人容疑者となって、越後へ身を寄せることとなったのである。

越後に散る会津武士

 伴百悦は越後の大富豪坂口津右衛門のところに身を寄せることとなった。もともと伴は北越戦争にも参加していたのだから、越後にも縁があったのだろう。
 屋敷ではなく、離れの一室が与えられていたというから待遇が良かったことがわかる。
 しかし、次第に追手がやってきて、伴は次々と居を移し、最終的には慶雲庵という曹洞宗の小さなお寺に移り住むようになった。

 しかし、結局ここも知られることとなる。
 追手に庵が囲まれると、激しく戸口を叩く捕り手を、板戸越しに一刺しし、そして庵の中で、自ら腹を切って死んだという。

 会津武士の誇りを守り、会津を愛した武士は、最後には会津に帰ることなく、越後の地で死んだ。

 彼の死後、大安寺の一角に、小さな自然石の墓石と共に埋葬されたが、それはしばらくは会津の者は知らず、墓石が建てられたのは1966年、会津出身で、当時の越後交通社長の柏村氏によって建てられたという。
 そして、伴百悦の墓がついに、会津に戻ってきたのは1999年。子孫が、東山の麓の善龍寺に分骨し、墓を建てるまでに、実に彼の死後130年後のことだった。

 最初にあげた問いをもう一度したい。
 武士の誇り、武士の心を守るために、武士から身分を落とし、人を殺め、武士を捨てた男。
 自分の墓の近くで死んだこの男の生きざまを坂口安吾は、知っていたのだろうか。

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