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【怪異譚】電話ボックス

 公衆電話、あるいは電話ボックスを最近見なくなった。
 理由はもちろん携帯電話やスマートフォンなど、個人で連絡手段を所有しているからだ。
 なので、充電が無くなった時か、災害時などの携帯電話の電波が通じない状況などでないと、公衆電話など使うことがないであろう。

 以前は、東京で会社員として働き、現在は実家がある山形県に戻り、農業団体に勤務する根津さんも、そんな感じであった。
 現在30代半ばの根津さんは、テレホンカードを持っていた最後の世代くらいになるであろうか。
 社会人になる頃には、すっかり携帯電話も普及しており、公衆電話などに気を留めることもなかった。

 会社に勤めてから5年ほど過ぎた頃、根津さんはすっかり疲れ果てていた。
 ブラックとは言わないまでも、残業は当たり前、ノルマも厳しく、精神は蝕まれ、それに同調するように身体も、睡眠障害、原因不明の偏頭痛などに悩まされるようになった。
 たまの休日も、ただ一日、寝て終わるという悪循環が続いた。

 お盆の時に、実家に帰省した時のことだ。
 会社からの携帯電話への着信画面を見た時、何かが弾けたのだろう。
 「もう、どうでもいいや」とやけくそな気分となり、その電話に出なかった。
 根津さんの携帯電話は、その後も何度も、鳴り続けた。

 そのことに、何故か無性に怒りがこみ上げ、根津さんは携帯電話を、叩き壊し、ゴミ箱に捨てた。
 しかし、部屋の中にいると、気のせいとは分かっているのだが、携帯電話の呼び出し音が聞こえてくる。

 どうしようもなくなり、財布だけ持って、部屋を飛び出した。
 その時には、もう通常の精神状態では無かったのだろう。
 どこか、死に場所を探すような感じで電車に乗っていた。
 
 根津さんの実家は、山形でも海側の地域となる。
 小一時間ほど列車に揺られ、寂しい漁村にたどりついた。時刻は夕暮れだった。

 根津さんの前には、日本海独特の断崖があった。
 地元では、隠れた自殺の名所と言われているところだ。
 「ここから飛び降りたら、全てリセットされるのかな」などと思い、フラフラと崖の方へと向かっていった。
 日本海へ沈む夕日が綺麗だった。

 突然、電話のベル音が聞こえた。
 見ると、公衆電話ボックスがある。その中にある電話が鳴っていたのだ。
 思わず、根津さんは、その公衆電話の受話器を取り上げた。
 受話器の向こうから、母親の「どこにいるの?早く帰ってきなさい」という泣き声が聞こえた。

 それで、根津さんは我に返った。
 公衆電話の受話器の向こうは、切れてトーン音が聞こえるだけだった。
 あらためて公衆電話のボックスを見ると「いのちの電話」と書かれていた。
 ああ、自殺の名所と呼ばれる所に置かれている、それを抑止するためのものか、確かに救われたなと思い、根津さんは実家へと帰った。
 急に連絡もとれず、家からいなくなったことを両親に怒られたが、そこで不思議なことに気がついた。

 あの、公衆電話から聞こえた母親の声は、なんだったのだろう?
 母親に聞いてみると、何度も根津さんの携帯電話へとダイヤルしたが、ずっと話し中で、その時、一瞬だけ、つながった、と。
 しかし、そんなピンポイントで、携帯から公衆電話への転送が出来るわけが無い。
 どう考えても、おかしいのだ。
 
 その後、根津さんは、やはり精神を病んでいたということで、東京の会社を退職し、実家の山形へと戻ってきた。

 落ち着いた後で、もう一度、あの自殺の名所を訪れたのだが、公衆電話ボックスは、いくら探しても無かったし、地元の人に聞いても、そんなものは見たことがないという。

 それでは、あの夕暮れに見たものはなんであったのだろうか?
 根津さんは、今ある命に感謝しながら、そんなことを考えるという。

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