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【ふしぎ旅】姥堂

新潟県妙高市に伝わる話である

 田切城主郷戸伝左衛門景清は、乗馬が得意の荒武者で常に大刀を帯びていた。
 ある時、信越国境を調べるため家臣を連れて妙高山へ登った。
 途中にある石地蔵の前まで来ると「刀をここにおいて登れ」という声がした。
 伝左衛門はカッとして「刀は武士の魂だ。失礼なことを言うな」といって、石地蔵を足で蹴っ飛ばして、谷底へ落としてしまった。
 すると山鳴りがして、恐ろしい天狗が現れ「地蔵さまを元に戻せ。さもないと、祟りがあるぞ」と言ったと思ったら、急に暗くなり暴風雨になった。
 伝左衛門は驚いて、谷底へ下りて石地蔵を持ち上げようとしたが、根が生えたように重くなり、びくともしなくなっていた。
 途方に暮れていると、今度は山姥が出てきて「乳飲み子千人を、ここへ連れてくれば、動くようになる」と言って消え去った。
 しかし、乳飲み子千人を集めることなど到底不可能なので、その日はこのままにして帰り、高僧や知恵者を訪ねて、色々な意見を聞いた。
 その結果、石地蔵の上にお堂を建てて、罪を詫び、ねんごろに供養した。
 この姥堂は、今も残っている

小山直嗣『新潟県伝説集成上越篇』

 伝説としては、短い話の中に要素がたっぷり詰め込まれた話である。
 話す地蔵、天狗、山姥とおなじみの妖怪たちがあらわれる。
 祟りがあったり、無理難題を言ったりというところも伝説としては定番である。

姥堂

 しかし、一般的な伝説としては、この姥堂は木曾義仲とその姥が祀られているお堂で当時、女人禁制だった妙高山を越えるために義仲が姥を関の、この堂がある温泉に残していったと伝えられている。

 田切城があったのは戦国時代の話なので、話としては、先に挙げた伝説の方が、随分と後の話となる。

 だとすると、もともと木曽義仲伝説があり祀られていた地蔵様が、粗末に扱われていたので、姥堂が建てられたということであろうか。
 あるいは、戦国時代の話なので、血統や大義名分などから、伝説の武将、木曽義仲に関連する伝説が必要だったのかもしれない。

 実際に訪れてみると、姥堂のあるあたりは関温泉の温泉街で、いくつかの温泉旅館や飲食店などがあった。

 関温泉は山奥にあるが歴史は古く、弘法大師によって発見されたとされ、それ以降は山岳信仰と深く結びついていたとか。

 さらには、戦国時代には、上杉謙信が妙高山を崇拝し、妙高山の入口でもあるは雲上寺宝蔵院(=現関山神社を信仰、その近くにある関温泉は上杉謙信の隠し湯としても知られていたとか。
 またその頃より湯治場として栄え、江戸時代には、中期ころには雲上寺宝蔵院(=現関山神社)が運営していたとか。

関山神社

 武将が傷を癒すために使われていた温泉なら、それにまつわる伝説が荒々しいものになるのも不思議ではない。
 ましてや山岳信仰とあらば修験道と天狗の関係は言うまでもあるまい。
 さらに姥堂にて木曽義仲の乳母が祀られているならば、山姥への関連付けも想像出来る。

子宝橋

 姥堂の近くには、子宝橋という橋が架かっており、下を見るとかなり落差がある。
 ここが地蔵が落とされた谷底なのだろうか。

子宝橋より下を望む

 そこから、少しだけ坂を上ったところに姥堂がある。

姥堂 草藪に隠れていて、ほとんど見えない

 中には姥尊像と木曾義仲像が祀られている。

姥尊像と木曾義仲像


 誰の作かは分からないが妙に白く、チープな感じがある。姥という感じでもなく、まさしく乳母という感じで実際に昔から母乳の出に霊験があったとか。
 先ほどあった子宝橋という名も、この姥尊像由来なのだろう。
 中には五輪塔があり、上杉謙信の身内のものだと言われている。

五輪塔

 さて伝説の天狗は山岳信仰から(妙高山中に天狗堂という天狗を祀った祠もある)山姥は木曽義仲の姥尊信仰からと予測すると、最初に出てきた話す地蔵は?という疑問が浮かぶ。
 姥堂あたりにはお地蔵様などないからだ。
 これに関しては山をすこし下り関山神社に行くと、それらしきものがある。
 関山石仏群と呼ばれるもので、かつては妙高山登山道に並べられていたという。
 この中のどれかが姥堂の近くにあったと考えても違和感はないだろう。

関山石仏群

 つまりは、一番最初に紹介した伝説は、関温泉近辺にある信仰対象を紹介し、それに武士が無礼を働いたことを戒める話と読むことも出来る。
 上杉謙信の妙高山崇拝を、より分かりやすく伝えるものとも言えるだろう。
 
 ある意味で伝説を使った寺院勢力と武将たちとの代理戦争と呼んでもよいのかもしれない。

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