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【ふしぎ旅】安達ケ原の鬼婆

 福島県二本松市というよりは、奥州安達ヶ原と言った方がよいだろうか。ここは鬼婆伝説で有名な所で、さらに伝説ばかりでなく、鬼婆の墓や、住んでいたと言われる所まで残っている。 

 昔(1200年以上前)、「岩手」なる老婆がいて京都の公卿屋敷の乳母をしていた。
 自分が乳母をしていた姫が病気であり、その病気を治すには「妊婦の生き肝を飲ませれば治る」と易者が言うので、その言葉を信じ、遠く、みちのくに旅立ち、たどり着いたのが、安達ヶ原の寂しい岩屋であった。
 ある夜、伊駒之助・恋衣と名のる若夫婦が、この岩手の岩屋に一夜の宿をこうたが、その夜身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、伊駒之助は薬を求めて外に出る。
 「岩手」は待ちにまった人間の「生き肝」を取るのは、この時とばかり、出刃包丁で、苦しむ恋衣の腹を裂き「生き肝」を取った。ところが死ぬ際に「私達は、小さいとき京都で別れた母親をさがしているのです」と言った言葉が気になり、ふと恋衣が持っていたお守り袋を見ると、幼くして別れた自分の実の娘ということが分かり、気が狂い鬼婆と化し、その後は宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らい、「安達ヶ原の鬼婆」と呼ばれるようになった。
  数年後、紀州熊野の僧「祐慶」なる者が、安達ヶ原を訪れ、何も知らずにこの「岩手」の岩屋に宿を乞う。「岩手」は「祐慶」を泊めるが、その際に、奥の部屋だけは見ないでくれという。しかし、「祐慶」が誘惑に勝てず、その部屋を覗くと、夥しい数の切り刻まれた死体が積まれており、そこで「祐慶」は、「岩手」が「安達ヶ原の鬼婆」ということを知る。
 あわてて「祐慶」は逃げるが、必死の形相で追いかけてくる鬼婆。もはや、これまでと「祐慶」が自分の持っていた仏像と共に祈祷すると仏像が空に舞い上がり、鬼婆を弓で射殺した。
 その後、「祐慶」が鬼婆を葬ったところを「黒塚」と呼ぶようになった。また、「岩手」が住んでいた岩屋は「祐慶」を守った仏を奉った寺「観世寺」の中にある。

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 自分の育てた娘を助けようというあまり、実の娘を殺してしまい、その罪に気が狂い、鬼と化すというのは、かなり切ない話だ。
 もっとも、実際の鬼婆の話では、この悲しい理由が語られずに、別々の話で伝わっている。
 この鬼婆になった理由が描かれていなく、鬼婆が「祐慶」という偉い坊さんに殺されたという鬼退治の話だけだと、話としては全く面白くないわけで、後から考えた話なのだろうが、うまくまとめていると思う。

 話の流れをまとめると

 1.老婆岩手、京都(中央)から東北という異界(当時の状況では、異国に近い)へと移り住む
 2.その場所で、知らずに子と孫殺しというタブーを冒す
 3.その罪に気が狂って鬼(異なる者)へ
   その象徴として、殺人と人食というタブーを冒す

 という一幕があり

 続いて
 1.祐慶、偶然に、安達ヶ原という異界を訪れる
 2.そこで、老婆に「部屋を見るな」という制約を受ける
 3.約束を破り、部屋の中を見てしまい、そのことにより老婆は鬼婆に変化
 4.最終的に鬼婆は仏の力によって消滅

 という場面があるわけで、いずれにしてもタブー、もしくは約束を破ったことをキッカケとして老婆が鬼婆に変わるという形を見ることができる。(自分が禁忌を冒したのか、それとも相手が冒したのかという差はあるにせよ)

 「見るなの部屋」は鶴女房などに典型的な、物語の型の一つであるが、その発生談として、子殺し、人食等の原始的なタブーをからめた点、実に巧妙に作られた物語であり、これだけ物語の要素が詰め込まれていると、歌舞伎や歌曲、漫画(手塚治「安達が原」)など、様々な創作物の題材になるのももっともだと思う。
 この伝説があまりにもよく出来た話のためか、それとも元となる話がホントにあったのかは知らないが、前述したように、この鬼婆を葬った塚や、住んでいたと言われる岩屋が実際に存在する。

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 黒塚とよばれるこの塚は、河川敷の中にポツンとそこだけある。
 小さな丘に大きな杉の木が立っているだけのようにも見えるが、ここに鬼婆が埋葬されているという。
 何も言われずにそこだけ見たら、ただの丘にしか見えないであろうが、周囲と見比べると明らかに、ここだけが異空間のようだ。

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 この黒塚から、ほど近いところに「祐慶」を守った仏を奉った寺「観世寺」があるのだが、この観世寺の中に鬼婆が住んでいたとされる岩屋がある。
 1200年以上も前の、まだ寺が立てられず、あたり一面、荒涼とした野原だったと思われる時代。まさに安達ヶ原と呼ばれるにふさわしい頃、その野原にこの岩があれば、誰かが住んでいたと思われても不思議ではないだろう。
 この岩が人工物にしても、自然に出来たにしても、かなり見応えがあるものであることは確かだ。

 ここまでは私も納得できる。
 鬼婆伝説があり、鬼婆の墓と呼ばれる塚と、そこに住んでいたと言われる巨石があることには、とりあえずは納得できる。

しかし、だ。

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 どう見ても、後世に人工的に作られたとしか思えない小さな池を、鬼婆が人を殺めるための出刃包丁を洗った池(出刃洗いの池、または血の池)とするのは、いささかやりすぎではないかと思うのだ。
 さらに言うなら、観世寺の宝物館(有料)の中には、1200年以上も前に実際に鬼婆が使用したという出刃包丁、人を煮ていたと言われる鍋、食事をするときに使った茶碗などが収められており、ここまで物品がそろっていると、胡散臭さが増大する。

 とは言え、千年以上前の伝説の痕跡が、ここまで多く残っている所は珍しいので行く価値は大であろう。 

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