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家康の決断 3.決断の結果をどう受け止めるか
こんにちは、いっせいです。
徳川家康の75年の生涯の中でターニングポイントとなった決断について、書いていきます。今回は3回目、「三方ヶ原の戦い」になります。
当時の時代背景や、家康の状況
1560年代の後半には、西側から攻め込まれる心配を軽減するために織田家との関係性を深めています。
1567年には長男に信長の娘である徳姫と婚姻を結んでいます。
また、1570年の姉川の戦いでは、織田家に援軍を派遣しています。
一方で東側の旧今川領に勢力を伸ばしています。同時に進行していた武田氏と同盟を結び、西の遠江国を徳川領とする協定を結んで領土を拡大しています。最終的にはこの武田氏との協定は破綻しますが、勢力を拡大する勢いのあるタイミングですね。
ただ、同時期に信長への各国の警戒が強まり、信長包囲網が結ばれます。
(ここも家康としては決断のタイミングなのですが、なぜ織田家に味方したのかは、情報を見つけられなかったので、またの機会にします。)
この信長包囲網の結果、1572年に武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻します。そして本拠地の浜松城へ近づいてきました。徳川軍としては対処をする必要があったのですが、武田軍は浜松城を素通りしてより西側の三河国に侵攻する動きを見せました。当時の兵数は、徳川軍1万人に対して、武田軍は2万5千人であり、不利な状況でした。
家康はどのような決断をしたのか
ここで家康としては、二つの選択肢がありました。
武田軍を追撃して、西側への侵攻を防ぐ
浜松城に籠城して、徳川の被害を減らす
ここで家康は、武田軍を追撃する決断をします。
一般的には血気に盛った家康が、籠城派を押し切り、決戦を決めたと言われています。ただ、あくまで想像ですが、自分の領地を侵攻されるのを防ぐというのもありますが、ここで武田軍を叩ければ、東の侵攻に利するとも考えたのではないでしょうか。しかし、武田軍はこの家康の動きを予測していたため待ち構えていました。
結果的に、徳川軍は大敗してしまい、家康は命からがら浜松城に逃げ帰りました。その際に恐怖のあまり脱糞してしまった家康でしたが、この時の状況を絵に残して、自分の戒めに使ったというエピソードもあります。
家康の決断から学べることは?
結果的に、武田軍の追撃という決断は、失敗に終わりました。
この中で学ぶことは、決断という行為には失敗はつきものですが、まず決断できるか、そして決断の結果を受け入れられるかだと思います。
決断を避けていては生きていきませんし、また決断の結果をきちんと直視することも大事だと思います。
自分が決めた行動による結果から目を逸らさず、自分を戒め続けたからこそ大きな結果を作れたのではないでしょうか。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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