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 あるNPO法人のスタッフの方から素敵な話を聞きました。その方は、市営の駐輪場の管理をしています。地域社会を良くしたいと、駐輪場を通りかかる小学生たちにも「おはよう」と声掛けをしたそうです。無視する子どももあったようですが、次第に挨拶を返すようになったそうです。
 ある日、母親と子が一緒に来ました。「この人?」と母親が子に聞き、その子がうなずくと「おかげさまで、学校でも、地域でも、あいさつが元気にできるようになりました。ありがとうございました」と母親があいさつしたというのです。
 あいさつ、当たり前のことです。でも、それができない社会になっています。親子の関係だけでなく、地域社会で次の世代に伝えていく。大切なことです。大人が、次代を担う青少年にバトンを渡すのです。そのバトンには、その人の汗や体温、ぬくもりがあるはず。これは、まさに、その人の生きてきた証、歴史です。
 何を継承していくのか、渡すのか。そして、その継承は何のために、誰のためにするのか。当たり前のようなことですが、この点が昨今の教育論議から抜け落ちることが多いように感じます。私は、誰もが生命あるものとしての尊厳を持てる、お互いを尊重できる、そのような社会のために、伝えていかねばならないもの、また、見直していかねばならないものがあると考えています。
 エリック・エリクソンという心理学者は、「ジェネラティヴィティgenerativity」(生成継承性)ということを論じました。舌を噛みそうなジェネラティヴィティという難しい言葉ですが、要は、中高年期に発現する、次の世代、青年を育てようという欲求や関心のことです。今、このジェネラティヴィティが失われつつあります。
 定年退職後に関心があるのは自分の生活をエンジョイすることが中心といった声もあります。中高年層の自己中心性も指摘される中、もちろん青少年・若者をあたたかく見守る中高年の方々も多いとは思います。社会全体をみると若者へ差し伸べられるあたたかい手、それが減っているのではないか。しかし、これは中高年ばかりを責めても仕方がありません。ジェネラティヴィティが陶冶されにくい時代なのだと思います。次代を担う青年を育てようという思いは、自然に生まれてくるものではなく、ある種の条件により生まれます。それは、その人の人生において、一人の人間として認められ、誇りを持てる生き方をしてきた、人とのつながりや温かさを感じてきた、人や社会に感謝の念を持てるような環境にあった、人の悲しみや苦しみを共感することができるような心が育つ環境があった、そのような条件です。しかし、社会からそのような環境が奪われてきたのです。人をモノとみなし、切り捨てる社会。利益と効率のみを追求し、人と人とのつながりを軽視する社会。次世代へ橋渡しをする役目を担う大人の立場と責任として、今こそ、社会のあり方が問い直されなければならないと思います。


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