僕の原体験 ~母ちゃん最期の授業~
はじめまして、アッキーと申します。
Twitterで「原体験ドリブン」の著者であるチカイケ秀夫さん @chikagoo から僕の原体験を知りたいというオファーを受けました。
https://twitter.com/chikagoo/status/1255036716676608000
そこで驚きと嬉しさのあまりいてもたってもいられずnoteに登録した次第です。チカイケさんの著書「原体験ドリブン」については後日詳しく記事を書きますが超大まかに内容をまとめると
・原体験を掘り下げることで「その人」の軸がわかる
・軸でなければ本気になれないし、言葉に重みがない というもの。
では早速、初noteながら僕の原体験について書き綴りたいと思います。
おっと! その前に簡単に自己紹介を。
私、アッキーは元消防士の34歳。
今は【病院救命士の未来を創る】をビジョンに掲げ、九州の救急病院で「救急支援室」という新規部局の立ち上げをしています。医療と消防の世界をよりよくするために日々奮闘しています。
さて、救急救命士を目指したのは紛れもなく母の影響です。僕が救急救命士として生きる意味、大切にしているものは全て母が与えてくれた多くの原体験でした。
そんなアッキー救命士の原体験物語、はじまりはじまり・・・
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■原体験その① ~「はい、どーぞ」~
僕の母は看護師だった。
僕が幼いころから夜勤をして育ててくれた。
父は港湾関係のサラリーマン。家を出るのは5時頃と朝が早い。
勤め先は、実家から車で約10分ほどのところにある小さな小さな病院。
夜勤の時は、父と一緒に出て病院で下ろしてもらい、保育園の時間まで詰め所で過ごすというのがいつもの流れだった。
その小さな病院が僕の原体験の舞台。
時は今から約30年ほど前、僕が5歳の頃。
朝、母の後ろに付いていき、患者さんにお薬を手渡すシーンが今でも8ミリカメラで撮ったような映像が今でも頭に蘇る。
「はい、どーぞ」
「ありがとうね~。お利口さんやねぇ~」
おじさんが目を細めながら頭を撫でて褒めてくれたのが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。今、思い返しても嬉しさで胸がいっぱいになる。
だからこそ、僕が卒園文集に書いた将来の夢は「お医者さん」。(手術をしている絵を描いたのを覚えている)
母の仕事を目の当たりにしていたこと、この原体験があったからこそ思い描いた当然の夢だ。医療職への憧れやカッコよさは、すなわち母へのそれそのものだったのだろう。医療職=かっこいい=将来の夢、というのは何の疑いもなく僕の心に刻まれた。
■原体験その② ~初めての「命の授業」~
そんな僕が中学3年生の時に、初めて死と向き合うことになる。
祖父の死だ。
危篤の知らせが母のもとに届き、僕ら家族が病室に到着した時には既に祖父の意識はなかった。
それから半日が経ったころ「明博(本名)、ちょっと来なさい。」母が祖父の病室に僕を呼んだ。
「じいちゃんはもうダメやけん。”人が死ぬ”っていうことがどういうものかしっかり見ときなさい」
「今じいちゃんは体全体で息ばしよるやろ。”あえぎ呼吸”っていってこれはもう全身の力を振り絞らな息ができん状態。今からその力も無くなって”下顎呼吸”っていう顎だけの呼吸になる。その後は最後の力を振り絞って鼻が膨らむ”鼻翼呼吸”っていうのになる。そしたら最後に呼吸が止まる。可愛がってもらったじいちゃんの最期、あんたは責任持ってしっかり見ときなさい」
じいちゃんが死ぬという現実、目の前で人が死ぬという怖さ、目を真っ赤にしながらも力強い言葉をかける母。
色んな感情が渦を巻いて僕を襲った。けれど、僕はしっかりと祖父の最期を見届けた。ベッドの柵を握りしめて。
その後、祖父は母が言ったとおりの呼吸を経て息を引き取った。あんなにも気丈だった母が泣き崩れた。
自分の父親の死をもって教えてくれた最初の「命の授業」だった。
■大きな転機
それから月日が経ち、僕は高校2年生になっていた。その当時は看護大学に進学するつもりで塾にも通っていた。そんなある日、母が新聞の一面広告を僕の眼前に突き付けた。
「今度、救急救命士の専門学校ができるげなよ(できるらしいよ)。あんた看護師にならんで救命士にならんね(なりなさいよ)」
看護師になることしか考えていなかった僕は当然その提案を受け入れず、
「は?救命士げなならんよ(なんてならないよ)。看護師になる。大体そのために塾行きようやん」
しかし、そこから母の【救命士のススメ】プレゼンが始まった。
とある田舎の消防長だった叔父もプレゼンに加わった。
その結果、アッキー少年は将来の夢を看護師から救急救命士へとピポッドした。
意見に飲まれたからではない。
そこには明確な理由があった。
社会を、”構成する要素”でみたときにそのピラミッドの最も根本にあるのは「人の命」だ。
命が無ければ、看護は成り立たない。
看護は救命ありきだ。
医者や看護師が倒れた時に最初に手を伸ばすのは、救急救命士しかいない!
そう僕は結論付けた。次の日には退塾手続きを済ませていた。
高2の冬には専門学校にいくことを決めていたため、大学受験を勧める担任を塩対応し、またセンター試験前でヒーヒーなっている同級生を横目に悠々自適なバイト生活を送った。
卒業延期がかかった世界史の追試を、4時間というとんでもない直前の詰め込みで奇跡的にクリアした僕は念願の救急救命士の専門学校へ入学した。
専門学校での勉強は楽しくて楽しくて仕方がなかった。
それもそのはず、幼い頃から憧れた医療の世界に一歩踏み出したからだ。
勉強で分からないことがあれば、何でも母に質問した。
すぐに答えてくれた。
国家試験の勉強を頑張った覚えは一切ない。医療の勉強が楽しすぎたからだ。当然、成績はトップクラス、全国模試でも30位に入った。国家試験も楽勝。
そして何とか消防本部の試験に合格することができ、晴れて消防士となった。
(※補足:救急救命士の資格を最も生かせるのは救急車に乗ること。つまり消防士にならなければならない=消防の採用試験に合格しないといけない)
■原体験その③ ~医療者とは~
消防士になって1年目のある日。実家に帰り母から包帯の巻き方を教わっていたときのこと。(母は整形畑で、包帯を巻くのがめちゃくちゃ上手かった)
「救命士は現場じゃほとんど巻かんやろ?けどね、救命士なら包帯くらい巻けな話にならんばい」
母は続けた。
「私たち医療者は”医療の職人”じゃないといかん。一番大切なのは”手”。機械じゃないとよ。”手の感覚”を大事にしなさい。やけん、あんたが今から一番大切にせないかんのは職人としての技術よ」
これが僕の救急救命士としての最もコアとなる考え方、言葉だ。
この言葉だけを信じて突き進んできた。
■原体験④ ~最後の「命の授業」~
それから5年後。
医療者として最も尊敬する母が死んだ。
原因は成人T細胞白血病という血液のガンだ。
今日が山場ということで、その日の午前中には家族や親戚が集められた。
奇しくもその日は、定年する父一人を送る退職者送別会。
兄も仕事でお客さんのところに行かなければならなかった。
お昼を過ぎた頃、母の状態が悪いながらも安定してきた。
父のために何十人も集まってくれていること、兄は独立したてで忙しいことから親戚の後押しもあり、何かあればすぐに電話で連絡することで彼らは病室を後にした(二人とも車ですぐの距離)。
それから数時間が経ち、依然母の状態に変化はない。
親戚にご飯を食べてくるよう促した。
病室には母と二人きり。モニターの音が響く。
顔はむくみ、意識のない母の手を握り、今までの思い出を振り返る。
祖父が亡くなったときは、こんな心境だったのか。。。
そんなことを考えていた矢先、ふとモニターに目をやると心電図の波形が微妙に変化していることに気付いた。
救命士としての勘と経験が「母の死」という現実を僕の体に否応なしに叩きつける。
「すぐに戻ってきて!!!!!!」家族と親戚に連絡をする。
父が病室に戻った頃、脈拍が落ち始めた。
だが、血圧はほとんど変わらない。正常値といってもいいレベルだ。
((これはおかしい・・・・))
モニターに示された血圧の値に明らかな違和感を感じた僕は、動脈に触れた。
((やっぱりおかしい!))
現場で何百回も反芻した母の言葉
「機械を信用するな」
その言葉があったからこそ数値を疑い、行動に移した。
病室に備え付けてあった手動血圧で血圧を測る。
違和感は、絶対的な確信へと変わった。
実際の血圧は、モニターの数値よりも明らかに低かった。
まずい。
「母の血圧が下がってきていますので先生を呼んで下さい」ナースコールを押す。
男女2人の看護師が病室に入ってきた。モニターに繋がれた自動血圧計で測り直す。
「上の血圧は110あるのでまだ大丈夫ですよ」男のナースは言った。
大丈夫ですよ、という言い方ももちろんだが、なにより腹が立ったのが”機械しか見ていない”ということだ。脈拍すら触診しない。
医療従事者は患者さんの命と向き合っているのであって、画面の数字ではない。ましてや、人の命はシミュレーションゲームではない。
怒りを押し殺し、その看護師に言った。
「申し訳ありません。実は私、救急救命士なんです。モニターの数値が信用できなかったので、この手動血圧計で測ったら上が90もありません。橈骨もほとんど触れません」
無言でまた自動血圧計の測定ボタンを押す男性看護師。
「100はありますね...…」 全く僕のいうことを信用していない様子。
キレた。
「いやいや、それはモニターの数値でしょう!そんなもん当てにならんですよ!手動で測ってみてくださいよ!!」
渋々、手動で血圧を測る。その意味をようやく理解したようで「.......本当ですね、先生を呼びます」 主治医にコールをした。
主治医が来るまでの数分間にどんどん脈拍は下がった。
あとは、兄ちゃんだけだ・・・!頼む間に合ってくれ!
ドアが開いた。息を切らした兄が母の耳元に駆け寄る。
「母ちゃん、〇〇〇ばーい。わかるねー?」
落ち着いた優しい声で声をかける。
そのわずか3分後、母は静かに息を引き取った。
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心電図の変化に気付いたとき、もし僕がモニターの数値を信じていたなら兄はおろか、恐らく父でさえ最期の瞬間に間に合うことはなかっただろう。
それは僕の功績ではない。
母が言い続けていた
「医療の職人であれ。手を大切に。そして機械を信用するな」
という言葉があったからこそだ。
母からの最期の授業は、自らの命を通して無言で僕に伝えてくれたものとなった。
本当にありがとうね、母ちゃん。
母ちゃんみたいな凄い医療の職人になるね。
いつも見守ってくれてありがとう。追いつけるごと一生懸命頑張るばい。