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苦肉の遠隔教育

 シリコンバレー支店に各事業部から選ばれた四人がそろった。さて、どういうオフィスにしよう。全員で議論してみた。「それぞれ好きな机買ったらいけませんか」「いや、そも、ここは何をするところなんだろう」自分たちを見つめ直す機会とした。すべて自由だから難しい。
 シリコンバレーをNYのように思って支店にやってくる人がいる。「自力で行くから心配なく」が危ない。「駅からタクシーと思っていたが、あんな駅とは」空港から電車で三十分とはいえ、通勤時間帯以外駅に人影はない。いや、どこが駅かもよく分からない。ホームも改札も屋根もないのだ。駐車場の中を線路が走っている。そんな駅で待つタクシー運転手はいないし、スーツケースを引いて歩く人もいない。やはり空港まで出迎えればよかった。
 日本Sunの営業マンが挨拶にやってきた。「聞いてますよ、ツアコン大変ですね」ニヤニヤ室内を見回す。「東京に行くので〇〇部長様にお伝えしておきますよ」カチンときた。「〇〇には私からちゃんと報告していますから」出入り禁止にした。
 支店来訪者の帰国後の感想に「オフィス質素だった。もう少し金をかけても」というのがあった。Sunやアップルのショールームと比較するのはご勘弁だ。グループの他支店より質素だったかもしれない。しかし、中途半端に見栄を張った応接など意味がない。普通の会議室でいいと判断した。それなりにお金をかけたのは、議論をする楕円のテーブルだけだった。それでも組み立て式だ。
 さっそく飛び込みの売り込みがあった。技術的には興味深いのだが、どうしたものか。Javaで作ったイルカのアプリケーション。PC画面の中を3Dのイルカが泳ぐ。うーん。
 もっと実用的な売り込みもあった。IP電話のかなり有名なソフトだったが、一億円でどうか。うーん、考えているうちにマイクロソフトに買われてしまった。
 赴任後も定期的に日本に戻り、経営会議などで報告した。「支店内での議論がなかなかまとまりません。まだ分社して間もないのにメンバはそれぞれの事業部に染まっていました」と切り出したら妙な間があった。「それは経営会議と同じっていう皮肉かね」
 そう言った部長が支店を視察にきた。そして、NYのNTTアメリカに挨拶して帰国するという。「NTTの世界展開に弊社もお手伝いを」と意気込んで同行した。世界貿易センタを望む豪華な応接室に通され、数分の世間話で終わった。何ができるか、具体的に提案すべきだったと反省した。
 豪華なオフィスより大事なことがある。日本から忘れられないようにすることだ。支店のWebサイトにはかなり力を入れた。日々の活動、米国の生活、展示会の情報など、いまならブログだが、当時はHTMLを全員ゴリゴリ書いた。
 各事業部に「ご用命ください」のクリスマスカードを出した。年賀状禁止令が出たので、あえてスタンドプレイだった。涙ぐましい「忘れないで大作戦」だった。
 現地のコンサルタントと契約した。元気な奥様で在宅勤務だが、名刺の住所はオフィスにしたいというから、三畳ほどのサーバ室をその人の部屋として、その分コンサル料を負けてもらった。
 そのコンサルタントが近隣のベンチャーを次々紹介してくれた。話を聞いてきて、関連しそうな事業部に打診する。デモを見たいと言えばベンチャーと打合せて遠隔会議を設定した。日本に合わせるから米国側は深夜になる。
 コールセンタの要員管理システムだったと思う。概要説明を終え、デモに移る前に日本がさえぎってきた。「デモを見たらノウハウを盗んだと言われかねないから、ここでお仕舞にしよう」そんなこと事前の打ち合わせで聞いてない。要員管理のアルゴリズムがこのベンチャーの特長だったが、そこはすでに顧客が決めていたという。どうして今頃、あまりのことに通訳できない。ベンチャーの社長に「今夜はこれで」と謝った。
 翌日、ベンチャーに電話すると、社長がランチでもという。寿司屋へ連れて行かれたが、あんな気まずいランチもなかった。「私たちのどこに問題があったのか。日本人との付き合い方をちゃんと勉強したい。なんでも本音を言ってくれ」ドライな印象の米国人だが、意外にも日本的な接待だった。子供時代、親について横須賀のキャンプに居たことがあったそうだ。
 シリコンバレーの大企業の接待はもっとすごかったようだ。幹部になると自宅にプールやテニスコートは当たり前だが、日本の顧客のトップの「奥様をひと夏泊めた」という話も聞いた。
 インターネットでテレビや映画を観る時代が来るとは予想していなかった。だが、教育には充分だろう。当時、NTTの衛星通信サービスの大口ユーザは、予備校や保険会社の研修だったのだ。やがてインターネットが取って代わると考えた。
 UCバークレーには、遠隔教育を外販するチームがすでにあった。サンノゼ大学も協力してくれた。英会話とマーケティングの2コースを社員でトライした。会議室を遠隔教育のためのスタジオにした。社長も受講すると言ってくれて、社内は追い風になった。日本市場に展開したかったが、NTTラーニングという子会社ができてしまった。
 長野オリンピックの年だったので、日米の小学生がIP電話で交流するイベントを企画した。米国側の小学校はすぐ見つかった。小さなテレビ電話の画面も、小学生を興奮させるに十分だった。日本側は長野の小学校が名乗りをあげてくれた。日本は朝八時、一時限の授業前に、米国は夕方四時、歌や絵を披露しあう楽しい会になった。
 小学校は、シリコンバレーの億万長者が住む地区のすぐ隣の貧困地区にあった。NPOが寄付で運営している。朝食を出す、昼食も出す、頭のシラミを取る、と書くと、まるで難民キャンプではないか。黒人とヒスパニックの子供たちのためでもあるが、治安改善のねらいもあった。
 このイベントにWebサーバを寄付したいという企業が現れた。うちからはPCを寄付しよう。その学校のPCがあまりに古かったからだ。本店に相談すると、買ってまだ一年のPCを廃棄にはできないという。そこで、シリコンバレーに支店を出してる別の子会社にPC寄付を呼びかけた。コムウェアで寄付するならとOKしてくれた。それをテコに本店を説得し、寄付を実現できた。
 遠隔教育の派生として、内定者を囲い込むWebコミュニティを作った。これも今はSNSなどでなったが、当時は画期的だった。「実践ノウハウ インターネットで遠隔教育・研修」として出版した。

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