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繰り返す今

誤って全てのnoteアカウントを削除してしまいこのザマだ。飽き性の割に長く続いていたアカウントもあったのだが、もう仕方ない。というよりそこまでショックを受けていない自分がいる。また一から、書きたいときに書きたいことを書いていけばいい。

思えば過去のnote全てで、私はまともに自己紹介記事を書いたことがない。興味がないからだ。どこの誰とも知らない読者が、ではない。私が私の自己を紹介することに必要性を感じない。だって知らなくね?誰でも良くない?へーそういうのが好きなんだふーん、で?って感じじゃないか。

「他人からの反応の有無」自体に恐怖や不安を覚える自分にとって、自らが作り出す確実な孤独感は、ある意味で私を安心させる。要は私限定の姑息な予防策。下手に傷ついて落ち込まないための防衛手段。最初から孤独なら、最初から誰からの反応を望まなければ、少なくとも不安に陥ることはない。「誰も私に興味がない」という確実性に、多少なりとも目を瞑ることができる。

面倒なのは、社会から隔離されている現在の私に一番必要なのは、まさにその「他人」の存在だということ。本当は読んでほしい、少しでも興味を持ってほしい、私というつまらない存在を、せめて認識してほしい。そんな自己愛ねじ曲がった我儘を捨てきれないことだ。

一つ自己紹介をするなら、私は色々あって認知が相当に歪んでいる。それに困っている。
これは病気のせいもあるだろうが、成長過程で形成された人格が最たる原因だ。もっと言えば、「自我」がない。というより「自我」が育つ前に、他者や世間に迷惑をかけないという道徳観が先に刷り込まれたことで、私の主観はいつの間にか客観にすり替わり、とにかく、私以外の誰かを不快にさせないことだけを考えて生きてきた。それは今もまだ改善していない。

おかげで病状も、初診の適応障害から現在の(躁鬱寄りの)気分変調症とかいう訳の分からない病気にまで進化してしまった。要因が複合的すぎて厄介だ。何より現在に至るまで、色々なことが起こりすぎた。そりゃ認知くらい歪むだろ?


複雑珍奇な私の思考を整理するのにnoteは最適だ。少なくともこれまではそうだった。だからこれからも「いつも通り」、思考を垂れ流していく。特に最近は希死念慮が酷い。そんなときに思考を書き殴れるこの場所は、静かで居心地がいい。

ただ、静かすぎると怖いんだ。夜眠るのが怖いように、同じ朝を迎える予測に絶望するように、「孤独」を知覚してしまうことが怖いんだ。予防策として孤独だと思い込んでいるくせに、それはやっぱり堪らなく嫌なんだ。我儘も矛盾も、ただの承認欲求だということも全部分かっている。特に私の承認欲求は、血反吐吐く対価を差し出さない限り満たされたことがない。だから厄介なんだ。

思考は回りだすと眠るまで止まらない。眠りたい、でも怖い、眠れない、寝不足頭の嫌悪、そして朝の薄暗がりに目を閉じる。その繰り返し。そして起きれば、完璧にリセットされたような同じ今日を迎えるんだ。

ああもうこんな時間だ。このアカウント最初の記事がこんな時間に、こんな内容だ。我ながら自分らしい。いい加減殺したい「自己」。その方法を、毎日毎日考えている。



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