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嗚呼愛しき愚かな本能
ツイッターは本当に色々な情報を脳内に流し込んでくる。取捨選択する暇もないまま、有益な情報から他人の日常、犬猫、インプレゾンビ、理由のわからない肩書を引っ提げたビジネスアカウント、下着姿の承認欲求自撮り女、メンヘラのポエム、その他。本当にドブ川だ。汚くて仕方がない。
そんなドブ川を毎日のように眺めていると、たまにハッとさせられるツイートに出会うことがある。だから私は、そんなドブ川を見ているのが楽しい。その中で今回、私の心を良くも悪くも抉ったツイートを共有したい。ツリー形式のなかなか長文なツイートなので、一部を抜粋する。
自分に自信がない人は、「私なんて何の役にも立たないし、自分がいなくても代わりはいる」というストレスが、頭のすみに常駐してる。虚しさや、情けなさが混ざったこの感情は、心の状態によって、膨らんだり縮んだりする存在で、「欠点だらけ、穴だらけの自分を少しでも埋めなきゃ」という焦りを、
— ごーど|「心の余裕」の作り方を学ぶ (@SureGoahead) July 18, 2024
自分の意思に関係なく、永遠に生み出してしまう。この状況はウラを返すと、自分の存在価値や、生きる意味に執着している状態で【 自分が "唯一無二の存在" じゃないと、どうしても耐えられない 】ことを示してたりもする。べつに望んでる訳じゃないけど、結果的に「自分がオンリーワンであることを、
— ごーど|「心の余裕」の作り方を学ぶ (@SureGoahead) July 18, 2024
自分が納得できるレベルで証明したい」という状況。しかも無意識に。やっかいなのが、まわりに「あなたの存在そのものが、オンリーワンだから大丈夫!」と言われたくらいでは焼け石に水で、心の底から自分を納得させるレベルかつ、たとえ自分の心が沈んだとしても、無償の愛で引き上げてくれる環境が
— ごーど|「心の余裕」の作り方を学ぶ (@SureGoahead) July 18, 2024
以下は省略する。
この人がどこの誰かは知らない。ランダムに流れてきたツイートの一つに過ぎなかった。普段ならよくあるメンタル系ツイッターの一つだと流していただろう。しかし、私の小さなエス(イド)に突き刺さる刺激を感じた。
このツイート、色々言葉を装飾してマイルドに包んで優しく表現されているが、要するに、
”自分に自信がない人は(中略)【自分が”唯一無二の存在”じゃないと、どうしても耐えられない】、ということを無意識に考えている”
ということだ。
ああ、そういうことなのか。私が他者に肯定されたいと思う感情は、この唯一無二性を、私のアイデンティティを確立したいという感情の裏返しなのか。ではこの執着にも近い感情を放棄すれば、それらは満たされ、楽に生きられるということか。
きっとそうなのだろう。病気を理由にして、過去のせいにして、何もできない自分を納得させるために、こうして他者からの評価を求める私の行為は、なんとも我儘で歪んだ自己愛に満ちた幼稚で拙いものなのだろう。こうして自責の言葉を並べることもまた、唯一無二性を認めてもらいたい行為に他ならないのだろう。
執着、比較。それらはメンタルを苦しめる行為。無意味で愚かな行為。
執着の放棄、比較しても何も変わらない、自分を第一に考える。メンタルにとってきっと有益な行為。
よく見聞きする言葉だ。心救われる言葉だ。見飽きた言葉だ。
だがそんな無意味で愚かな行為を今からしていく。以下は読まなくて良い。ここからはただの自己満足だ。推敲もしない。本能のままめちゃくちゃに書き殴っていく。
自分を特別視する感覚は、きっと誰しもが持ち合わせている普遍的なものなんだろう。しかし特別という言葉は、比較の上でしか成り立たない。子供の頃抱いた夢のような話ではなく、大人になる過程で自己を理解し、他人との違いを理解し、「自分」なりの生き方を模索して、「自分」の喜びを、悲しみを、感情を、そういう唯一無二なものを、「自分」が理解して守り生きていくことが、「自分」にとっての特別になるのだろう。
他者との比較は基本的にネガティブに語られる。ある生き方への執着はまるで怪物のように引いた目で見られる。かく言う私もこれらの行為に意味はないと頭では思っているが、結局のところ比較せずに生きられる人間など、何かに執着せずに生きられる人間など存在しないとも思っている。
綺麗事を抜きにして、本当に自分のことだけを考えて生きているのか?その「自分」は、誰かの生き方と比べた上で成り立つ納得と肯定感ではないのか?何かに執着するから、藻掻いてでも生きようとするのではないか?無から何が創造できるというんだ?失敗から学んで成功を得るなら、誰かの生き方から自分を確立することも理論上同義ではないのか。
白黒つけたがるのは私の悪い癖であり、立派な認知の歪みだ。その上で言いたい。全ての言葉には裏がある。それは善悪ではない、陰陽だ。光を選ぶか影を選ぶか、それはどちらを選んでも、誰にも咎められるものではない。己が決めた場所であるなら、そこで息ができるなら、それこそが唯一無二性だ。
ただ、陰陽は表裏だ。そう、全ては表裏だ。2つで一つ、「自己」は他者(超自我)と自我によって作られる。どちらも欠けてはならない要素。その「他者」に含まれるのはメンタル系で排斥されがちな嫉妬や執着、比較といったものだ。だが、それがないと「自我」が見えなくなるのもまた一つの事実だ。
上記で引用したツイートは立派な一つの正解だ。正直そのまま素直に受け入れてみようと思った。だが、突き刺さった場所が私のエスだった。私の本能は、どうやらそれを拒絶したようだ。
私は何かに執着して生きていく。何かと比較しながら生きていく。これは一つの諦めであり、きっと変えられない、変える必要のないアイデンティティだ。死にたいと思いながらも、結局今も生きていることがその証明なんだろう。脳みそが提示し続ける自死を、見えないエスが拒否し続けてくれていたのだろう。
全ては自分がどう納得するかだ。何のせいにしてもいい。希死念慮に襲われようが、自傷しようが、全てを投げ出してしまいたくなろうが、どれだけ自分に絶望しようが、これが私のエスだ。自分を守ってきた小さな本能だ。
ツイッターはドブ川だ。必要な情報も不必要な情報も、全部まとめて流れてくる。
デジタルデトックスという言葉もあるくらいだ。こんな汚い場所、離れたほうが良いに決まっている。
でもどうしてだろう、やっぱりこのドブ川を眺めている間は、とりあえずでも生きていようと思えるんだ。
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