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そこにエスはあるか

エス(えす、es)とは、人間の精神機能を説明する言葉の一つであり、本能的な欲求や生理的衝動のことを指す。イド(id)ともいう。

https://www.kango-roo.com/word/21191

現在通院している病院の一つ前に通っていた心療内科、私からすると、私を苦しめる誤診を平然と行ったセカンドオピニオン。そこで行っていたカウンセリングの際、カウンセラーから教えられた言葉だ。

心理学など当然素人だ。エス(イド)という言葉を初めて聞いたとき、未知の言葉に知的好奇心を覚えた。自分のことすらまともに話せなかった私が、いつになく積極的にその言葉の意味を聞いたのをよく覚えている。

精神分析学者のフロイトは、人間の精神機能を説明するために、「エス」「自我」「超自我」の3つに分けて、人間の精神はこれら3つの相互作用の結果であると捉えた。

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私の記憶では、超自我というものが社会や世間での自分、自我は文字通り自我、そして、その根底にある本能の部分、それがエス(イド)というらしい。それを総合して「自分」になるというわけだ。ちなみに「エス」という言葉は”ドイツ語の非人称の代名詞”とのこと、要は無意識(本能)ということらしい。

話は脱線するが、フロイトはオーストリアでユダヤ人家庭に生まれたそうだ。没するのが1939年、ナチスの迫害を受けた彼が『自我とエス』という論文を書いたのが1923年。こじつけ甚だしい妄想の域を出ないが、なんとも奇妙で皮肉なつながりを感じてしまうのは、きっと私の思考回路が歪んでいるせいなのだろう。


人間が生まれたとき、その心的領域はすべて「エス」が独占している。しかし、誕生後の経験の中で、「エス」の一領域にその変形として「自我」が形成されていく、というのがフロイトの主要論理である。

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話を戻す。つまり「自分」の形成の順番は当然エス(イド)→自我→超自我 となっていくわけだ。本能的欲求や生理的衝動を含むエスは、成長するにつれて形成される自分、そして学ぶ他人、社会、道徳、ルールによって必然的にその状態がそのままであることを制限する。
理性、善悪の判断。人間が社会を形成するにあたって最重要な機能であり、このおかげで我々は生きている。人類は数を増やしている。そういうことなのだろう。

逆に言えば「理性を失った」り、「本能のまま」何かをするといった衝動性はあらゆる手段を以て排除される。社会にとってそれは「悪」だから。国籍や人種なんて狭い話をしているわけではない。人類単位で生命を残し維持していくためには、この脳機能は欠かすことのできない最重要な機能だ。だから幼い頃から我々は、道徳を学ぶのだろう。社会で生きていくのなら、誰かを脅かさないために、自己の衝動は否定し、理性を以て中和させる。そうやって社会は、世界は、回っているわけだ。

このエスに対して、超自我(スーパーエゴ)は人間の精神機能の中で、ルールや道徳観、理性を担い、善悪の判断を行う。そして、エスと超自我からの欲求を、自我(エゴ)が調整しているという構図がある。つまり、「超自我」は直接的に、あるいは「自我」を介して間接的に、「エス」の支配に立ち向かっている。これが、フロイトが説明する人間の精神機能である。

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申し訳ないが、本題はここからだ。どうしてもこの用語は共有しておきたかった。もっと最適な伝え方があるのだろうが、あいにく私はこういう手段でしか前提の共有はできない。

カウンセラーとの会話に戻る。過去の自分、辛かった体験といったテンプレを一通り話した何度目かのカウンセリングで、カウンセラーが言ったのは「マツヲさんは超自我(理性)の部分が肥大化して、自我やエス(イド)が極端に小さくなってしまっているんでしょうね」。

フロイドの唱えたこの精神構造に興味を奪われていた私にとって、その話は、普段のような下手な私の体験への共感よりも、よっぽど救われたような感覚になった。



一般的な精神構造は上記の画像のようになるらしい。

この画像を見て改めてショックを受けているが、カウンセラーが紙に書いてくれた私の精神構造は、逆を向いた正三角形のような形をしていた。肥大化した超自我、つまりは理性が働きすぎて自我が押しつぶされている状態。本能部分であるはずのエス(イド)がさらに追いやられて、小さくなってしまっている。そのせいで苦しんでいるのだろう、と。

超自我は社会で生きていくうえで必要だ。それは否定しない。だがそれは、大衆を主語としたものであるはずだ。では個人、ここでは当然私の話であるが、私に落とし込んだらどうなる。人間として生きていくうえで必要な自我、そしてその根底にあるエス(イド)を押しつぶしながら頂点に大きく君臨する理性、超自我。社会で生きていくうえではこの上ないことかもしれないが、「一人の人間」としてそれは生きているといえるのか?生きている意味はあるのか?自分の本能すら否定して、他者の為に尽くすことだけが美徳なのか?己の「自我」という土台の上に成り立つはずの超自我が、その自我を殺している。

この矛盾、ましてや社会から隔離された現在の私にとっては、人格を否定し続けるギロチンの刃のようだ。いっそ縄を切って刃を落としてしまえば自我は楽になれるが、その後の処理は誰がする?死んだところでそのギロチン台は、私とともに燃やされるだけだ。そんな私の超自我。とことん自我を追い詰めて否定したいらしい。


こんなことを考え続ける脳みそは、慢性的に鬱状態に陥ることを選んだ。おかげで睡眠もままならなければ、生きていく上での最低限をするだけで疲れ果てる毎日だ。そんな状態が続けば、分かるだろう?何を生み出しているわけじゃない、誰にも貢献しているわけじゃない。いくら療養とはいえ、私は何もせず、ただ呼吸をしているようなものだ。その状態になれば脳は必然的に、理性か妄想か区別のつかない不安や恐怖を増幅させて、私に自死という選択肢を提示してくるんだ。

弱音を吐きたいわけじゃない。苦しみをわかってほしいわけじゃない。慰めてほしいわけじゃない。ただ、ただ。今こうして下手くそに生きている私を肯定してほしいだけだ。自己肯定感なんて言葉、大人になるまで知らなかった。自己を肯定するのは他者であるはずだと、幼いながらそう思って生きてきたから。自己が自己を肯定するのはその場しのぎの甘ったれの行為であると、そう思って生きているから。それが間違っているなら、私の中の超自我が見せている間違った幻影だというのなら、どうか叱ってほしいんだ。

今残っているエスは、今にも切り落とされそうなギロチン台に乗せられた、自己を肯定して、何も考えずただ生きていたいという本能。そしてそのエスを包括しているのは、何のために生きてこれ以上誰に迷惑をかけるのか、という真っ当な自我。

「私」はどこにいて、本当は何がしたいのだろう。




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