ガタカが暗示する、日本社会の未来と生きづらさの究極の形
だいぶ前に、この記事に出くわした。
残酷な「遺伝の真実」あなたの努力はなぜ報われないのか
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53474
主に遺伝という、自分ではどうしようもできない理由で学業成績の60%が決まってしまうという内容。もちろん全部が全部遺伝で決まるわけでもないけど、正直やっぱりね、という気がした。
この手の話に触れるたびに「ガタカ」が見たくなる。
で、また見ることにした。何回目かな。
ガタカのあらすじ
ガタカという映画をご存じない方のためにあらすじを。こんな感じです。
ってな感じ。ちなみに公開は1997年。もう25年も前・・。
今、ガタカを見て思うこと
名作の条件は「あいまいであること」と言った人がいたそうだが、本当にそのとおりだと思う。
これほど見るたびに感想の変わる映画も珍しい。
昔は単に、努力すれば夢叶う、というストーリーがいいなあ、と単純なことを思っていた。
が、年も取っていろいろと経験もしたせいか、最近はまったく違うことばかり思い浮かぶ。
今、改めて「ガタカ」を見てまず最初に思うのは、
「ガタカ」とは、近未来の日本の姿を暗示しているのではないか
ということ。
そこにあるのは
・劣等感と嫉妬をエネルギーにした、優秀さを誇示するためだけの終わりのない競争
・その後ろに見え隠れする、イヤになるほどグロテスクな遺伝による不平等
の2つではないか。
ヴィンセントの夢は、本当に夢だったのか?
今、ヴィンセントの生き様を思い返してみると、賞賛を送るどころか疑問に思ってしまうことがある。何かというと、
木星に行くことは、ただ誰かに負けたくない一心でしがみついた、かりそめの目標に過ぎなかったのではないか?
ということ。
たしかにヴィンセントは努力と熱意で宇宙飛行士になり、木星に行けた。
だが、その後いったい彼にとってどんないいことがあったというのか?
(ネタバレで恐縮ながら)彼が「不適正者」であることは木星行きのシャトルに乗る時点ですでにバレていた。
したがって、戻ってきても捕まってガタカから叩き出されるだけ。
よしんば正体がバレることなく木星に行けていたとしても、どのみち遅かれ早かれ彼が不適正者であることは白日の下にさらされていたはずだ。
そう考えると、木星に行くのは本当に彼の「夢」だったのだろうか。心底やりたかったことだったのだろうか。
どちらかというと、弟のアントン(ちなみに、適正者の割には冴えない仕事をしている)や他の「適正者」全体に対する仕返しだったのではないか、とすら思えてくる。
うがった見方をすると、ヴィンセント自身、そのことに気づいていなかったのかもしれない。
「不適正者」として生きるのはあまりに夢がないから、無意識に「適正者」の中でも特に優秀と思われる宇宙飛行士を「夢」だと思い込んでいたのではないだろうか。
自分にも身に覚えがある。
今勤めている会社、本当に心の底から望んだ会社だったか?
そもそも会社で働きたかったんだっけ?
そうじゃなくて、結局「誰かに勝ちたかった」からではないか?
ちょっと余談になるが、映画を実際に見ると気づくように、ガタカという組織が実際のところ何をしているのかよくわからない。
従業員も普段どういう仕事をしているのかも分からなければ、そもそも会社なのか政府機関なのかといったこともまるで明らかにされないのだ。
唯一わかるのは、ガタカに所属していることが優秀さの証である、ということだけ。
何してるかはどうでもよくて、そこに入ることだけが目標。それ以上の説明は不要。
なんか、日本の会社も同じようなものだと思えてならない。
就職人気企業ランキングは相も変わらず商社やら銀行やらが上位を独占している。一方、一時ほどではないが収入のめちゃくちゃ高い外資のコンサルなども人気だ。
でも、商社やコンサルが何をしているか、外からは正直言ってあまりよくわからないし、銀行にいたっては世間から非難されることすらしばしばある。
なのになぜ、学生はこぞってそこにエントリーシートを送るのか。
私にはただ、「そこに内定をもらうことが自分の優秀さを示すから」以外の何者でもない気がしてしょうがない。
遺伝子の勝者は自分が勝者であることにすら気づかないという不平等
さて、もう一人の主人公と言ってもいいジュロームだが、彼は彼で、水泳で金メダルを取れなかったことをずっと人生の汚点として悔やんでいるけれど、大多数はそこにすら到達できない。
でも、ヴィンセントに出会うまでそのことには気づきもしていなかった。それだけ「適正者」と「非適正者」の間には暗くて深い溝があったわけだ。
水泳といえば、ヴィンセントは幼いころから何度もアントンと競争しては負けている。でも最後の最後でようやく勝つことができ、おぼれかけたアントンを救うことすらできた。
ですが、相手がジュロームだったらどうだっただろう。きっと惨敗だ。
そのジュロームでさえ勝てない相手がいる。「適正者」どうしですらそうなのだ。
悲しいかな、遺伝子はわれわれを絶対に競争から降ろさせてくれない。
もっと悲しいのが、
宇宙飛行士の中には、ヴィンセントのとんでもない苦労と努力を全くすることもなく、木星行きのシャトルに乗り込んでいるヤツもいたということ。
個人的にはこれが一番切ない。
同じシャトルの中に隣同士、肩を並べて座っているのに、かたや全く苦労なし。
ヴィンセントは犯罪まで犯してようやくガタカに潜り込めたというのに…
ここまで極端ではないまでも、今の日本では同じような例がたくさんある。
たとえば、歌手やスポーツ選手、芸能人に2世が多いのは偶然だろうか。
もちろん、彼らもジュロームのように苦悩はあるだろうが、彼らの足元には何者にもなれなかったあまたの凡人たちが横たわっている。
そういった特殊な世界でなくても、やはり生まれ持った差を感じずにはいられない局面は多々ある。
たとえば学校。
学歴社会の利点のひとつは、選抜が平等であることだ、と言われている。
ある程度はそのとおりだと思うが、実際フタをあけてみると、東大に行っている学生の親はほとんどが高学歴・高年収であることはよく知られている。
また、大企業に勤めている人の親もやはりどこかの大企業や官庁のそれなりの役職だったりすることもしょっちゅう。
やっぱり、冒頭にご紹介した記事にもあったとおり、そこには遺伝子の影を見て取らざるをえない。
まとめ
努力して夢をかなえることが幸せへの道だと信じられてきたし、努力すれば夢はかなう、という言説も巷にあふれている。
だが、
そうまでして、夢は叶えないといけないものなのか?
そうまでして、努力はしないといけないものなのか?
そもそも、その夢も努力も、本当に自分の自由意志から出てきたのか?
あまり言うと、昔「1番じゃないとダメなんですか?」って言った人みたいになってしまうが、個人レベルでの競争だけが生きる意味になってしまったらこれほどつらいことはない。
そして、行動遺伝学の知見は、かろうじてベールに包まれていた競争の結果を、これ以上ないほど残酷な形で白日の下にさらしてしまう。
ガタカはそんなことを教えてくれている気がする。
でも、競争は止まることはない。
昨日も今日も明日もあさっても、日本は不平等とそこから生まれる嫉妬や不満をエネルギーにして回り続けるのだ。
ホントによくできたシステムだと思う。
すべては遺伝子のために。
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