山形やまがたYamagata

山形に生まれたことを、山形で育ったことを、誇りに思う。俗世的な言葉を参照するなら、「出身地ガチャ」大当たり。

カリフォルニア・日記に感化されて、また文字を綴ろうと思いnoteにログインをした。カリフォルニア・日記について知りたい方はコチラ↓↓


僕は大学2年の5月21日に、京都から山形に帰ってきた。24日には大事なお笑いライブを控えていた。相方に電話をかけ、数週間京都を離れる旨を伝えると、ふたつ返事で快諾してくれた。「私は、コンビを組んだ時から、体の弱い奴だと思ってたけど、ここ最近は明らかにおかしい。またやりたくなったら、やろう。」全てを察していた相方に、感謝。

5月の第1週、ゴールデンウィークにも帰ってきていた僕は、2週間ぶりの帰省だった。その前は丸一年帰っていなかったので、東根のおいしい山形空港に迎えにきた母には「今回は、思ったより早かったね」と声をかけられた。新庄に単身赴任している父も駆けつけてくれた。

2週間前に来た時よりも、山の緑は濃くなっていて、どの山も、力の強い山の表情をしていた。

帰ってきてからは色々なことをした。母に運動不足だと言われ落合スポーツセンターの屋内プールに行くも、山大医学部水泳部が来るとのことで1時間で切り上げたり、両親と蔵王のカフェに行って新左衛門の温泉に行ったり、オンラインの英語の授業を受けたり、後藤ひろひと氏のワークショップに参加したり、部活の蹴込を作ったり、高校の頃の友人とドライブに行ったり、、、。

中でも、父のカメラを譲り受けたのが最も大きな出来事であるように思う。

父のNikon FM2

話によると、新聞社に勤める父が、入社1年目、22歳の頃に購入した、初めてのカメラだという。カメラに関する知識のない僕は、この名機を気に入り、フィルムをセットしていないにもかかわらずファインダーを除いてはピントを合わせシャッターを切るといったような、写真家の真似事をして時間を忘れた。家から2分のところに住む祖母の家に赴き、終始カメラを見せびらかすと、死んだ祖父の遺品からフィルムを持ってきてくれた。「有効期限 09/2004」と外箱の側面に書かれたそのフィルムを、Youtubeの動画の見様見真似でセットし、僕の写真活動がスタートした。

ISO感度だとか、シャッタースピードだとか、絞りをどうするかだとか、その周辺知識に関してめっぽう弱い僕は、フィーリングで、「それ」らしく写真を撮ることにした。

さて、なぜこんなにも、辛く、実家に帰ってきてしまったのだろうか。今の症状や感覚を綴りたい。

「あたまが、おかしくなった!」

と思った。大学に行くも、30分ほど講義を受けると呼吸の方法を忘れる。今まで感じたことのないほどの動悸。頭痛。視界がぼやけるようになる。ついには大学に行くことができなくなった。僕は、眠ることで大抵のことは解決すると考えるきらいがあるため、早い時間に床に着く。しかし、また、動悸。眠ることができなくなってしまったのである。すると同時に、夜に対する恐怖を抱え、どうしようもなくひとり京都のアパートで布団に包まることしかできなくなった。そんな僕は自我を失い、生きている実感がなくなり、深夜3時頃だったのにも関わらず父に電話をかけた。職業柄、緊急連絡に対応できるようプログラムされていると言っても過言ではない父は、どの時間に電話をかけたとしても2コール目で出てくれるのであった。実家に帰ってからも、この症状は不定期に表れる。「苦しい。だれか。お母さん助けて、あれお母さんって誰だ?僕は誰だ?ここはどこだ?今は何をしているのだろう。生きているというのは嘘なのではないか」と自我を保てなくなってしまう。一人で実家近くの盃山へ散歩しに行った際には家の方向を忘れてしまい、自分が何をしているのか、何者なのか、わからなくなってしまう。

そんな症状を何度か経験した僕は、ひとつわかったことがある。

「記憶」である。自我を失いかけた際、自分の記憶を頼りにする。漠然と高校の頃の演劇部のことを思い出す。小学校の頃のスイミングクラブを思い出す。歌を歌う。自分はいろいろな経験をしたのだ。いろいろなことを覚えている。つまり自分は存在している。生きている。そう思うことで、ある意味で現世に復帰できるのだ。

またこの症状に関連して気がついたことがある。最近、物忘れがひどいのである。僕はひとを説得する際に、よく例えを用いる。1日に何回も例える。しかし、実家で両親と話している際に、例え話を始めた瞬間に、もとの話に戻れなくなる経験を数回した。僕は今、何を伝えたくてこの例えを用いたのか?と思い出そうとする。すると、次はなんの例えをしていたのかも忘れる。話している側から内容を忘れるようになったのである。人の名前も出てこないことが多いのであった。

僕は映画を見ることが好きで、一人暮らし中も数え切れないほど映画を見た。しかし、この症状が見られるようになってから、映画を最後まで見ていないことに気がついた。見れないのである。30分、長くとも1時間で、自分が何を見ているのかわからなくなってしまうのである。

結論、僕の脳みそは、集中できない脳みそになってしまったのである。この結論にいたるための帰省だったのかもしれない。では、いつから集中できない脳みそになったのだろうか。

考えてみれば、今年の4月ごろからである気がしてきた。僕は3月の終わりに新型の感染症にかかった。そう。感染前後で脳みそが変わってしまったのだ。そうとなったら後遺症に関して様々調べることにした。すると、

代表的な症状としては、疲労感・倦怠感、咳、息苦しさ、睡眠障害・思考力や集中力低下、脱毛、筋力低下、頭痛、味覚障害、嗅覚障害等があります。

と、僕の症状をそのまま記しているように感じるほど、当てはまるのである。また、後遺症は、熱が出なかった人の方が出る場合があるなどと言った話も聞いたことがある。僕は鼻水が出る程度で、発熱は全くしなかった。

原因の究明により、先の見えない不安が取り除かれたように思える。今なら京都に戻ることも可能ではないかと思える。人間の目は前についているのだから、前を向いて歩き出そうと思える。

そしてこの帰省により、少なからず山形には自分の居場所があると認識することができた。だめなら帰ってくれば良い。人生は長い。と思いながら、ゆるーく生きていきたいですね。

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