[夏ですね]カナブン戦記[部屋に出た虫と闘った話]

この時のことを思い出すと、未だ手の震えが止まらない。

忘れもしない、あれはこの7月の金曜日だった。
事の発端は小さなことだった。
ぶうんと低く、小さな物音が天井から聞こえ、時折、ばちん、ばちんと何か固いものが壁にぶつかる音がする。

まあ、上の階からDIYと思しき物音が聞こえるのは日常茶飯であったし、今日は華の金曜日。夜中から趣味に打ち込む、そんなこともあろう。と、さほど気に留めていなかった。


異変に気付いたのはその後のことだった。


視界の隅に、何やら動くものが映った。

瞬間、戦慄が走る。
この物件は一人暮らしだ。動くものは私の他にない。
であれば、今確かに部屋の隅で動いたあれは何だ?
そして断続的に聞こえる異音。すべてのピースが良からぬ方向に合致してゆく。
…この部屋に、生命が「もう1つ」ある!

そのカナブンは甲を怪しい光沢を持って光らせ、せかせかと四肢を、もとい六肢を蠢かせている。
現在が夜間であることを忘れず、寸でのところで悲鳴を飲み込んだ私の勇士を称えるものは、少なくともこの部屋の中にはいない。

さて、どうするか。

私はAMAZ〇Nプライムデーセールによって家へ運ばれてきた段ボールをとっさに体の前に構えた。
だが、この段ボールでどうしろというのだ。
標的を潰す?駄目だ。片付けが憂鬱になる。
段ボールで包んで逃がす?馬鹿げてる。現実的じゃない。
とりあえず被せる?被せたら最後、勢い余って潰してしまいそうだ。

依然、膠着状態が続く。
悲しいかな、私の頭は飛び回る羽虫ほど素早くは回らない。

こちらの悪しき意図を察したのだろうか。
奴は一目散に光をめがけて飛んだ。
ここでもまた私は悲鳴を飲み込む羽目になった。ばちん!ばちん!おぞましい羽音が頭上で断続的に続く。ベッドの上で段ボールを頭に被り、じっと恐怖に耐えることしかできない私の姿はきっとこの上なく惨めで滑稽だっただろう。屈辱だった。だがそれ以上に恐ろしかった。

「…君、しばらくここに住むつもりなら家賃を折半してくれないかな?」
苦し紛れの冗談がワンルームに溶ける。
第一、虫とのコミュニケーションが成立すれば人は皆不快害虫に苦しんでいない。
はたと、「虫とコミュニケーションが取れないか実験して、もしその意思疎通のノウハウを開発出来たら特許で一生左団扇の暮らしができるのではないか」と絵空事が脳裏を過ったが、日がな一日中虫に話しかけ続けていたらデータから有意差を得られる前に発狂してしまいそうだ。
そもそも同じ言語を操る同種の生き物、文化・ルーツを共有する同じ民族ですらたびたびディスコミュニケーションを起こすのだ。相手が昆虫だなんて、一朝一夕にはいかないだろう。ましてや虫嫌いの私がその実験にそこまでの情熱を傾け続けられるはずがない。諦めよう。

私は、自らの体長の1/10以上も小さい生き物に縄張りを侵され、読めない挙動に慄き、恐れ、布団に隠れて震えることしかできなかったのだ。正真正銘の負け犬だ。

逃げるようにふらふらと散歩に出た。敵前逃亡は重罪だ。私のプライドは死んだも同然だ。
頭を冷やすつもりで出てきたのに、7月の夜の空気は温い湿度をまとっていやに重苦しい。逆に茹だってしまいそうだ。
道すがら、googleに「カナブン 部屋に出た」とそのまんまなワードを打ち込んだ。ヒットしたyahoo知恵袋に「今は虫の方が危険で不自由な状態だ。泣きたいのはあなただけじゃない。」との回答が寄せられているのを見て、はっとした。
そうだ、いつだって平和的解決を諦めてはいけない。
言葉が通じなくとも、相手が自分と何もかも違う存在でも、最良の結果を導くために言語や相互理解は必ずしも必要ではない。
相手の権利と立場を考えた上で自分も幸せになれる行動を選択する。どこに難しいことがあろうか。必要なものはほんの少しの勇気だけ…
帰ろう。私の戦場(バトルフィールド)へ────


「…だから私を信じてほしい。誓ってこちらに害意はない。お互い、これ以上悪いようにはならないよ。だから協力してくれないかな。」
深夜、ワンルームから訥々と説得の声が聞こえてくる。
立て籠もり犯でも出たのだろうか?…まあ、その見解は25%ほど正解と言える。
いや、理性では分かっているのだ。この小さな命を前に対話は全くの無意味だと。だが、いざ目の前にいるとなると、もう、怖ぁて怖ぁて。ずっと何か喋っていないと正気を保てる気がしなかった。


────散歩から帰ってきて、ドアノブに手をかけ、思う。今ここで開けるドアから、あのカナブンが自力で出ていってはくれないかと。そんな期待をしながら自宅の鍵を開けた。だが残念!玄関に奴の影はない。忍び足で廊下を抜け、ワンルームに入り込む。そろりそろりと椅子に腰かけようとして、そこでやっと気配を感じた。
いた。
奴は椅子のクッションの隙間に挟まって身動きが取れなくなっていたのだった。いや、どういう状況だよ。だがこれは好機だと思った。
早速マスキングテープで救出を…と思ったものの、結構本気の挟まり方してて、簡単には取れない。

おおう、そう来る!?

手袋をつけてつまみ出すことも考えたが、手袋越しに甲虫の感触を味わうのは敬遠したかったし、その状態で羽根や手足を動かされると思わず手を離しかねない為、プランAはすぐさま棄却した。もう少し粘着力の強いテープはないかと、文房具箱を死に物狂いで探す。いかんな。あまり時間をかけすぎると余計恐怖が増すし睡眠時間が削れるぞ。
今度はガムテープをそっと被せ、椅子のクッションを変形させ、甲の全体を軽く覆う。…よし!上手く行った!!やったぞ!!私は恐怖に打ち勝ったんだ!!だが私の健闘を称えるものは、少なくともこの部屋の中にはいない。
和平の道のりはまだまだ続く。捕まえてからが本番なのだ。
ガムテープをそっとはずし、手ごろな容器を被せ、簡易な虫かごを作る。
途中テープが外れて、これまで比較的大人しくしていたカナブンが少し暴れるというハプニングが起こったが、幸い大事には至らなかった。人間、それなりに生きて人生経験を積めばだんだんと物事に動じなくなってくるものだなと少し感慨深く思った。物事に動じない人間が部屋に虫出たぐらいでプチ家出するかよ。

いよいよ正念場だ。ここで手元が狂うと状況は3行目に逆戻りである。落ち着いていこう。

容器をゆっくり移動させ、先ほどの段ボールで蓋をする。
だが、厚みのあるボール紙を容器と椅子の隙間に差し込み、虫の足場にするのはなかなか骨の折れる作業だ。容器の開く角度、段ボールを差し込む割合、すべての最適解が分からない。これまでの苦労を思えば、ここですべてを水泡に帰すような真似は絶対にしたくない。この勝負、失敗はできない。
この時私の脳内にはZARDの「負けないで」のサビがループ再生していた。チャリティーマラソンかよ。
ばたばたっ。虫が容器の中で小さく暴れる。本当に勘弁願いたい。
やっとの思いで虫を容器と段ボールで空間から断絶し、部屋の電気を遠隔で消してベランダの窓を開けた。夜間に明るい部屋を開放しておくと第二第三の虫が迷い込んできかねないからだ。Alexaがあって良かった。
念のためカーテンを背にまとい、部屋をガードする。
虫かごをベランダに置き、そっと容器を開放した。
奴はしばらく何が起こったか分からないといった素振りでうろうろと地を這っていたが、やがて一目散に宵闇の中へ飛び去って行った。

「じゃあな。二度と戻ってくるんじゃないよ。お互いの為に。」



こうして一晩の熾烈な戦いは幕を閉じた。
深夜のワンルームには再び一人分の完璧な静寂が戻った。
無論、この幕引きにスタンディングオベーションを送るもの、美しい結末に喝采を送る者はものはやはりこの部屋の中にはいない。
そう。再び、この部屋には私一人きり。

え!?あ、いや!アンコールは受け付けてないです!!







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