かつて存在した「インターネット」という別世界と、その入り口としての端末
私が初めてコンピュータに触れたのは幼稚園の年中くらいだっただろうか。私の親の教育方針は「何かやりたいならやらせてやる、ただしやり方は自分で調べろ」というもので、コンピュータやインターネットに関しても例外ではなかった。
とはいっても、物事の調べ方を調べろというのは酷なわけで、Googleの検索フォームにどうやって文字を入力するかを教えてくれたのは覚えている。
思えばその「自由放任」な教育方針が、とても有り難いもので、そして今の私自身を大きく構成している。小学生の頃に浮かんだ取り留めのない疑問なんて、子供同士で尋ね合い、せいぜい先生に聞きでもしたらそれで終わりである。ただこの「物事の調べ方」を小さいころから知っていたおかげで、その小さな疑問を解消し、そしてより大きな疑問に突き当たることが出来た。
ただ、今思うとあの時のインターネットは私にとって、「現実とは異なる、いろんな情報がある別世界」という風に認識していたと思う。現在バーチャルYouTuberなる存在が世間を賑わせているが、まさにそのバーチャル、”仮想”感を強く感じていた記憶がある。
”ネットリテラシー”ではなく”ネチケット”の時代
インターネットを別世界と感じていた理由の1つとして、現在のSNSのように、個人情報を書き込むことを是としていなかったためではないかと考えている。
私の記憶にある”ネチケット”は、個人情報を書いてはいけない、個人を特定できるような書き込みをしてはならない、etc…と、現実での関わりをインターネット上に持ち込んではいけないというものであった。
そしてネットで閲覧していたのは専ら2chやまとめサイトだった。今はFacebookやLinkedInのように実名で、アバターではなく自分そのものを登録することが浸透している。”ネットリテラシー”で、自分の個人情報を開示するリスクをコントロールし、そのメリットを得ようというのだ。
また、実名でアカウント登録、とまではいかなくても現実での人間関係をインターネット上に構築することも要因の一つではないだろうか。実際に私も中学・高校の放課後はインターネット上で、クラスメイトと交流していた覚えがある。
ただ、やはり最も大きな要因は表題の通り、利用する端末によるものではないかと私は考えている。
パソコンからスマートフォンへ
フューチャーフォンでも確かにブラウジングは出来たものの、視認性や操作性を考慮してインターネットを利用するのであれば、パソコンは必要不可欠であった。画面の大きさや入力機器はもちろん、回線やサイトの表示処理能力など貧弱で、まともに見れたものではなかった。だから私たちは、まともにインターネットを使うのであれば、机にどっしりと構える他なかったのだ。
ただ、そこに大きな変化が訪れる。スマートフォンの登場である。
スマートフォン自体に対して私は、「革新的なイノベーションだ!」とは思わない(実際すごいとは思うが)。スマートフォンを実現させたのは、着実な技術とUX設計の進歩だからである。
ただ、スマートフォンが現れてからの世間の変化は恐ろしく早かった。
「空間の制約から解放する」はずのインターネットは、それを利用するために空間に縛られていたのだが、その皮肉な構図を取り払うことが出来たのだ。真の意味で、空間の制約から解放されたといえよう。
だから、デスク上のパソコンという、インターネット世界に行くための窓口はその特異性を失い、むしろ現実空間の至る所にあの世界への小窓が開かれてしまった。彼らはそこで現実での人間関係を拡張してしまい、そして世界は重なってしまったのではないだろうか。
世界は重なって、やがて飲み込まれてしまった
昔のインターネット世界を作っていたのは、現実世界などに比べたら圧倒的にマイノリティであった人々である。独自のルールがあって、お互いに名前も知らない人間の社交場であった。
だが、その無数の小窓から多くの、あまりにも多くの人が流れ込んでしまった。圧倒的な数の差に、先人たちの作ったルールなど無用である。もはや”インターネットの世界”などなく、ただ”現実の延長”になってしまったのだ。
もう「匿名掲示板」なんて言葉を久しく聞いていない。いったい彼らはどこに行ってしまったのか、もしくは私たちと同じように、自分たちの現実世界に帰ってしまったのであろうか。
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まったく関係ない話なのだけれども、「スマホ依存症」も耳にする機会も無くなった。皆が当たり前のように依存したから、問題視する必要が無くなったのだ。
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