見出し画像

157/366 【ショートショート】 指輪物語(後編)

***

2日の山歩きの後、ようやく辿り着いた町だった。初夏の良い気候が続く間に歩けるところまで歩こうと決めて山に入ったはいいが、敵もなかなか。いや、敵なんて言っちゃあいけない。水は豊富だし、空気は美味いし、キャンプ場もちゃんとある。

山に入る前から小さな集落ばかりに滞在していたから、しばらくぶりに見る人だかりに少し圧倒されていた。なんだか不思議。1ヶ月前まで、これが当たり前の生活だったのに。

石畳が足裏に痛い。土がいかに足に優しいかが分かる。クッション性の高い靴とはいえ、やはり違いは伝わるものだ。

それでもおとぎ話に出てくるような街並みは目に楽しかった。焼きたてのパンの香りがする。さっきは甘いお菓子の香りもしていた。今日は久々にキャンプ飯ではないものを食べよう。何がいいかな。

お腹と相談しつつ、背の高いショーウィンドウを次々と覗き込む。考え始めるとますますお腹が空いてきた。ここはちゃんと吟味しないと。

虎視眈々とウィンドウを眺めていたら、どこからともなく声が聞こえた。

Hello, I'm here. You hoo...

ん?

周りを伺っても、声の主は見当たらない。

もう一度じっくりと見回した視線の先に、その子がちょこんと鎮座ましていた。紫外線がチリチリする日差しを浴びて、薄紫に輝いている。素朴な子だ。

一度目が合ったら、そのまま目を離せなくなってしまった。もう少しだけ佇んでから、私は薄茶の木のドアを押し開けていた。

***

「洗いざらしのTシャツにカーキのトレッキングパンツ、泥だらけの靴なんて格好で、よくあんなおしゃれなお店に入れたなあ、と今でも不思議に思うのよ」

来年80歳になる母が笑いながら手元に目をやる。

10歳になったばかりの娘と、2つ下の姪っ子がキラキラとした目でその手元を覗き込む。居間から聞こえてくる昔話。私も小さい頃、何度も聞いたものだ。お夕飯の下ごしらえをしながら、娘たちに聞こえないように続きをそっと一緒に囁く。

「追い出されても仕方ないくらいなのに、奥から出てきたお店のご主人は、ごく当たり前のようにおばあちゃんに声をかけてくれたの。”いらっしゃいませ。どの子を連れてお帰りになりますか?”って。誰かを引き取って行くことは確かだけれど、さて、それはどの子だろう、という声色だったわ。

おばあちゃんもその一言を、ごく自然に受け止めた。だからよね。普段なら気兼ねしちゃって声を出せなくなるのに、その時は普通に受け答えができた。

”あの、ウィンドウの右手奥にいる、薄紫の子です” ってね。

ご主人はうなづいて、ショーウィンドウからその子を取り出してくれた。それから、金色の刺繍がぐるりと施された、小さな赤い布地のがま口のケースにその子を大切そうにそっと入れて、おばあちゃんに手渡してくれたのよ」

「これのこと?」カナが尋ねる。

「そうそう、それよ。素敵でしょう?」

ピピぃーと音を立て、やかんのお湯が沸いた。ごぼう茶のティーバッグがセットされたティーポットにお湯を注ぐ。

雨の後の土の香りが湯気と共に広がる。一杯目を淹れた人だけが味わえる香り。誰も立ち上がりたくないタイミングで、お台所へ行った人だけが貰える特典だ。

「言葉が出来たらもう少しお話出来たろうに、おばあちゃん、あいにくその土地の言葉は得意ではなかったのね。だからちょっと会釈して、そのまま出ていきかけた。それを察したのか、ご主人もおばあちゃんのことをあまり引き留めはしなかったの。ただ、最後にこう聞いてから送り出してくれたわ」

***

”その子の声は、どんな声でしたか?”

一度しか聞いてないその声を思い出して、私は答えた。

”銀色の鈴みたいな声でした”

***

ここのくだりを僕は大層気に入っている。そんな風に聞こえたんだな、僕の声。

あれから僕は一度も声を出していない。彼女もそれを気にしていない。

あの旅は、その後一ヶ月続いた。その間ずっと、彼女は僕をチェーンに通して首からかけていた。指につけるには物騒だって言って。

シャツ越しにしか見えない景色で覚えていることは僅かだけれど、彼女の鼓動は全て伝わってきた。

鼓動が変わる度に、

景色に感動しているのか
何か不安な事態が起きているのか
イケメンの目線でも気になったのか
電車に乗り損ねたのか
虹が架かったりしているのか

色んなことを想像した。

今日は体調がよさそうだな。
あれ?今日は汗の量が半端ない。少し休んだ方がいいんじゃない?

多分僕は、彼女以上に彼女の心の機微を感じていた。そうやって、僕は彼女を深く知るようになった。

帰国後、彼女はようやく本来の形で僕を身につけるようになった。

左の人差し指が僕の定位置。でも毎日着けるわけじゃない。

朝着ける時には一言挨拶してくれるし、帰った時には、あの赤地に金色の刺繍、金の金具の小さながま口に戻してくれる。彼女が僕に声をかけるのは1日その2回だけだ。

お孫さんが大きくなっておしゃれに目覚めてからは、時折、僕との出会いの話しをするようになった。娘さんにもしていたように。

でも僕は、指先からずっと見てきた。彼女の日常も、旅先も。

孫には「角砂糖は1個!」って言うくせに、チュニジアのカフェでは紅茶に角砂糖2個入れるのがマイブームだった。そのくせベトナムの練乳入りコーヒーには文句ブーブーだった。香りから判断するにどちらも相当甘そうなのに、なんでそう態度が違うんだろうとおかしくてならなかった。

娘さんが巣立ち、一人で暮らすようになってからも生花を欠かさないことも、食事の前にはきちんと台拭きでテーブルを拭いていることも、「頂きます」と手を併せる声も、ちゃんと聞いている。

今日は「よっこいしょ」が多いな。しかも仕草が億劫そうだ。
今日は好きなおかずを作ったんだな。頂きまーすが間延びしてる。

指にはめることのない日が続いても、声や動作音だけで色んなことが分かるようになった。

「お母さん、ごぼう茶飲む?」

「ああ、いいね。冷蔵庫に水羊羹があるだろう。それもお願い」

「ママ!私もーー!」

「はいはい、手伝ってくれたらね」

「エミちゃん、いこう」

何でもないけれど、一緒に過ごす日々。

僕はいつも見守っている。

旅に出られなくなって久しいあなたの日常を。

***

続きは、またいつか。

明日も良い日に。

言葉は言霊!あなたのサポートのおかげで、明日もコトバを紡いでいけます!明日も良い日に。どうぞよしなに。