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【業とは】 舞台 「蜘蛛巣城」

現実の方が、悪夢だ

早乙女太一くん主演の「蜘蛛巣城」の舞台化と聞いて、見逃すわけには参りません。鼻息荒く勇んでまいりましたよ、KAAT。

総論:ここまで正攻法時代劇時代劇している舞台を生で見られる機会に、ひたすら感謝。

チャンバラ劇ではない。あくまでも、時代劇。映画と違うのは、そこに手が届く舞台だからこその、人間の泥臭さにスポットが当たっていたことだ。

登場する人物全員が、愚かで優しくて、愛おしい。

冒頭の魔女が言い放つ「綺麗は汚い、汚いは綺麗」とは、人間のことだったか、としみじみ思い知らされた。

清濁を何の矛盾もなく併せ持つ人間界の現は、夢よりも残酷なこともあるし、夢以上に美しいこともある。ラストシーンで、マクベス夫人の浅芽が花吹雪の中を去っていくシーンの、なんて美しいこと。でも、狂気のどん底にある彼女の眼には、そこかしこに転がっている骸の数々は、もう映らない。

有名すぎる黒澤明監督の「蜘蛛巣城」の、三船敏郎が「俺を殺す気か!」と言ったという逸話と共に有名すぎる矢だるま(弁慶系)ラストシーンは、この舞台では別のエンディングに変わっていたけれど、そこまでの展開も含めて、私はとても好きだった。

鷲津(マクベス)や三木(バンクォー)が亡き者とされていくのは同じだけれど、それ以外の人々も、全員お互いを信じられなくなり、ドミノ倒しのように疑心暗鬼に捕らわれた結果、彼らの末路に広がる裏切りの血の海はますます深くなっていく。そんな愚かで、悲しい人間を、魔女はただ見つめる。

狂気と美とは、背中合わせでしか存在し得ないのか。そんな思いもよぎった。

ラスト、鷲津は五兵衛という百姓の手にかかる。鷲津自身も百姓の出身で、実力だけでのし上がってきた人だが、周りは彼を「百姓上がり」と蔑んでいる。おおっぴらにそれを言う人もいる。

鷲津自身も、百姓上がりの自分にコンプレックスを抱いている。結婚も大変だったようだ。だからこそ、不遇の頃から寄り添ってくれた妻の浅芽を、心から幸せにしたいと願う。浅芽も、周りの意見がどうあれ、この人は人かどの人物だと信じるからこそ、上を目指させようとする。

その彼が、百姓に殺される。夫人はそれを目撃しているけれど、夫の最期を認識していない。なんて皮肉なんだろう。でも、世の中には、こういう皮肉な展開が数多ある。

そして最後まで正気のまま生き残るのは、百姓なのだ。

人間は、犬以下だ。犬だって、喧嘩の相手を殺さないのに、人間は平気で殺す。

早乙女くんの殺陣がほぼほぼ封印されているのが、少しだけ残念ではある。でも、それ以上に、皆さん、着物の所作が美しくて、見惚れてしまった。しかも、前から3列目という良席だったので、衣ずれの音まで聞こえてきて、五感の全てに福音があった。


同じく、「マクベス」を下敷きにした劇団☆新感線の「メタルマクベス」感想編。シェークスピアって、時代を超えてさまざまな形で翻案されていく。それは、人間の本質が変わっていないからなのだろう。

明日も良い日に。

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