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470/1000 【笑えばいいと思うよ(今度こそ)】 シン・エヴァンゲリオン劇場版

知識には気遣いが要らない。

ピアノは、こちらが押した鍵盤をそのまま音楽に変換してくれる。そこには情動的な要素はない。忖度もない。だから、いい。

寂しいと認めてしまったら辛いから寂しくないフリをする。ただガムシャラに何もかも見て見ぬふりをする。

本当は、ただ頭を撫でて欲しいだけなのに。

人には色んなおまじないがあって、そのおまじないの殆どは、家族という単位から離れ、初めて所属することとなる保育園や幼稚園という「社会」の中で教わっている。

ありがとう、ごめんなさい、おはよう、おやすみなさい。

初めましての人に手を差し伸べること。初めましてではなくても手を差し伸べて、初めての時と同じまっさらな心持ちに戻ること。仲良くすること。

大地の匂い。スイカはアレルギーだから共感できないけれど、レイが収穫したきゅうりの香りは分かる。青臭くてみずみずしい、夏の朝、まだむせ返るような日中が始まる前に収穫したおばあちゃまのお庭のきゅうりの香り。その日の収穫をその日に頂くという、普通のでも掛け替えのない瞬間の光。

人はどんな状況になってもしぶとく明日を生きていく。どんなになっても何か楽しいことを見つけられるように配線されている。空中にフヨフヨ浮いている何かの残骸の光景も、そのうちに見慣れてしまう。

エヴァの世界と今の世界が地続きだと思わせるようなエンディングだった。

世界を破壊しようとする人や集団の原動力は、突き詰めていくとものすごく小さな悲しみと、それが拗れて肥大化したエゴだったりする。

歴史はそれを何度も証明している。

それでも人は人であることをやめないし、希望という光にすがる病にかかり続ける。

人と人は個別な存在だからこそ繋がることができる。人類補完計画では表面的に一体化するだけで、結局深い意味で繋がることはできないのだ。mixはconnectとは違うのだ。

結局これからも苦悩しながら、結びつきを少しずつ、丁寧に、丹念に紡いでいくしか無い。

例え「マリ」や「アスカ」といった「パートナー」がいなくても、誰にでも「ユイ」はいて、彼女はイスカリオテでもゴルゴダでもなく、ちゃんと一緒にいる。誰にでも。

25年の時を経ての、物語の終わり。初めて見たのはA野さんからのオススメだったな。賛否両論あるのかも知れないけれど、私は好きだった。

庵野監督、お疲れ様でした。

シン・ウルトラマン、楽しみにしております!(え)

明日も良い日に。



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