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【長崎巡礼の旅②】 原爆と隠れキリシタンの歴史が交差する街で、今の世界情勢を思う
前回はこちら。
建築物から遡る長崎の歴史の次は、原爆関係と隠れキリシタンの歴史巡り。
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大浦天主堂。遠藤周作の「女の一生」にも描かれていた、信徒発見の舞台。日本人にも読めるように、日本語で「天主堂」と書いてある。
昔は中央の三角門の上にステンドグラスがあったそうだが、夕日を受けて輝く様は、さぞかし神々しかっただろう。
中は撮影禁止。
資料館には、過去何度もあったキリシタン摘発(「崩れ」)の歴史などの説明がある。ちなみに「崩れ」はcrackdownと英訳されていた。凄惨さが言葉の響きにも捉えられている、良い訳だと思う。
この辺りの通りには、親指一節分サイズの白い石が沢山埋まっており、遠目で見ると、桜の花びらに見える。付近に桜の木は咲いていない。足元だけの桜吹雪だ。
これならば年中、桜の絨毯で人々をお迎えすることができる。そんな想いが込められている。
桜ロードを後にして、次は長崎駅前の日本26聖人殉教地に向かう。
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奥から9人目と10人目だけ背が低い。子どもの殉教者たちだ。大人たちが殉教を翻意するよう話したが、「限りある命ではなく、永遠の命を選ぶ」と答え、皆と共に帰天した。
何が彼らをそこまでさせたのか。今なおわたしには分からない。
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そのすぐ近くにある、山王神社の一本柱鳥居。社は原爆で跡形もなく消し飛んだが、この半分の鳥居だけが、元の場所に今なお立っている。残りの半分は、女子学生の向こうに横たえられている。
構造力学的には建っていられないはずなのに、何故かちゃんと建っている。
この鳥居の根元には、神社へ寄付した方々の名前が刻まれている。原爆に晒された方角の名前だけが、掠れて薄くなっている。
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境内にあるクスの木。拳サイズの石が地面から吹き飛ばされ、3メートル上の木のウロの中で発見された。地面を揺るがした振動の大きさが窺える。
幹は、今も温かく生きていた。
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さらにそこから浦上天主堂。原爆で完全に吹き飛ばされた為、戦後に建て直された。新しすぎる為、世界遺産群の中には含まれていない。
時間ギリギリだったが、ご好意で少しだけ中に入れて頂いた。
青基調のステンドガラスが壁に光を落としている。そこにパイプオルガンの音色が響く。これをなんと独り占め。静謐な空間だった。
さらにさらに徒歩圏内の原爆資料館。
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原爆が落とされ、不毛の大地となると言われていた場所は、今青々とした木々に覆われている。
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この右方向には、実際のグラウンドゼロ。
しんどくなって、かの有名な大きな銅像までは行き着け無かった。
ロシアがウクライナを攻撃し始めた時、真っ先に思ったのが、「いつ原子爆弾のボタンが押されてもおかしくない」だった。
その瞬間、私は何をしているのだろう。原爆資料館の、炭化した女子学生のお弁当箱を見ながらじんわりと思った。
相手を脅威と感じ、対話を投げ出した瞬間、対立は始まる。それは、秀吉と隠れキリシタンの間でも、第二次世界大戦でもそうだった。ウクライナとロシアとの対話は、ありえるのか。
手を変え品を変え、形を変えて、人は何度も争いを繰り返している。その虚しさに気づく前に、多くの人が犠牲になる。
でもそこから再建もしてきている。
深い悲しみと、それを乗り越える忍耐と、復興への粘り強さ。それらの全てが、長崎という場所には存在していた。
宿のガイドさんの言葉を思い出す。
祖母はあの日、三菱の工場で働いていました。だから、僕は被曝3世です。その祖母が、最後に言っていました。原子爆弾が長崎に落とされたから、もっと死なずに済んだと心底思っとる、と。祖母にそう言われたから僕もそう思うことにしています。
顔を上げると、湾の向こうには三菱の工場が今もあった。
陽が暮れかけていた。
今日が終わる。明日もわたしが生きているかは、明日にならなきゃ分からない、
だから、だけれど、今を、まずは今を、感じて生きてみよう。
明日も良い日に。
言葉は言霊!あなたのサポートのおかげで、明日もコトバを紡いでいけます!明日も良い日に。どうぞよしなに。