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推しの香水 Part4 -パルマ女公マリア・ルイージャ - I

1816 年 4 月 20 日、オーストリア大公女マリア・ルイージア、イタリア語読みマリア・ルイージャは前年のウィーン会議において獲得したパルマ公国の君主としてパルマ入りした。
「善き女公」「我らの女公」とパルマ市民に親しまれたマリア・ルイージャは私財を投じ、2番目の夫であるパルマ公国首相アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク伯爵に公私ともに支えられ、長い戦争で荒れ地と化したパルマ公国のインフラ整備、学校や病院の設立、フランス軍に奪われた美術品の返還、オペラハウス設立などパルマ市民のために人生を捧げた。かつての売られた花嫁は平和と臣民を愛する君主となった。ナイペルク伯爵の死後首相に就任したポンペル伯爵と極秘再婚し、1847年の年末に死去するまでパルマ市民に慕われた。

一般的にはフランス語読みのマリー・ルイーズとして知られるが、パルマ女公となった際に公式名をイタリア語読みに改めている。彼女の人生のほとんどをパルマで過ごしたため、敢えてマリア・ルイージャと呼ぶ。

マリー・ルイーズからマリア・ルイージャと名前をイタリア語化した法令文

そう、18歳の時に彼女はコルシカ島出身の男の嫡男を生むために大叔母マリー・アントワネットと同じ道のりを辿りパリへと売られた。フランス側に引き渡される際の衣装替えの時に初めて香水を振りかけたと父帝フランツ2世へ手紙を書いている。マリア・ルイージャと香水の出会いはこのときが初めてだったのだろうか?

ちなみに彼女を買った46歳の花婿は柑橘系のオーデコロンを愛用者。大敗を期したロシア遠征の時すらオーデコロンの良い香りを漂わせていた。彼が愛用したファリナやRoche Gallantのオーデコロンは現在も販売中だ。最流刑地セントヘレナ島で最晩年に愛用したオーデコロンは再現販売されている。

コルシカ島のボナパルト……。未だに英雄視する者も多いが、次々戦争を仕掛け、各国の宝物や名画を略奪。特にイタリア半島は暴君の私領といった状態だった。筆者は好きになれない。
短い皇妃生活は夫から非常に大切にされたとはいえ、ヨーロッパ平和のため売られた花嫁ルイージャはどれほどの忍耐力を持って平常心を保ったのだろう。見知らぬ宮廷で信じられる者は秘書と女官長モンテベッロ夫人とオランダ王妃オルタンスだけ、孤独だ。
ウィーン会議中にバチカンから結婚無効の報を受け、19歳で産んだ愛息フランソワは宗教的には庶子となり、ローマ王という称号も失い単なるフランツと呼ばれた。ボナパルト派が息を吹き返さぬよう、パルマ公国の相続無しの国際条約が結ばれフランツはライヒシュタット公爵になった。

ルイージャの最初の結婚は教会としては無効、つまり独身。ナイペルク伯爵はルイージャとの出会いから数ヶ月後に妻と死別した。幼い息子をパルマに連れてゆくことも許されなかったルイージャがナイペルク伯爵と秘密結婚し、新たな家庭を持ち二重生活を送ったことを責める必要は無いだろう

ヨーロッパ人民の運命を狂わせたコルシカ男。野卑な男はシトラスのオーデコロンや嗅ぎタバコを愛用し、スミレの花が大好きだったのは以外な話だ。

アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク伯爵と
パルマ女公マリア・ルイージャ

ルイージャは18歳から4年を過ごしたパリ社交界には馴染まなかった。この頃の社交界はフランス革命時に貴族やブルジョワは亡命したまま、貧しい商人や下級軍人だった功労者は勲章のように爵位を与えられ急遽着飾って宮廷に出入りする有様。女性に道を譲るどころか女性にぶつかっても謝罪すらしない、優雅さや高貴さとは無縁の世界だった。
マリー・アントワネットの女官長を務めたカンパン夫人は新興貴族マナー学校を開設し、財を成した。

ルイージャは理由をつけては社交界への出席を断った。彼女の好みは自然が多いフォンテーヌブロー宮の散策、絵画や植物学といった素朴な趣味だ。花好きなルイージャは特にパルマスミレの花を愛し、パリでスミレを栽培させていた。北イタリアのパルマ公国に落ち着くとスミレを栽培させ、アヌンシアタ修道院の修道僧たちの力を借りパルマスミレの精油を蒸留させた。修道僧はこのパルマスミレを用いて女公だけの門外不出の香水『ヴィオレット ディ パルマ』を調香した。

調香師のロドヴィコ・ボルサリは修道院を訪れ、修道士が蒸留した精油に惚れ込み、彼は僧侶たちに門外不出の調香レシピを手放すよう説得。1897 年にボルサリは香水事業を立ち上げ、ヴィオレット ディ パルマ Violeta Di Parma を販売した。ルイージャの死後50年の時を得て、善き女公の香水は蘇った。Viva Borsari !
オリザ・ルイ・ルグランのViolettes du Czarは1862年作。19世紀末はスミレの香水が出回り出した時期だろうか。

初期のボルサリ1870 Violetta di Parma
1990年代のVioletta di Parma

ボルサリ1870は大手企業に買収された後、近年ヴィオレッタ・ディ・パルマは廃番になった。現在はVIOLETTA DI PARMA productsが生産販売している。

The traditional VIOLETTA DI PARMA products

https://www.parmaviolet.com/copia-di-eau-de-parfum  
海外発送は事前に送料見積もり依頼依頼が必要。

今日もルイージャの善政を称えるかのようにパルマ産のスミレをメインとしたパウダリーフローラル香水が生産されている。この場で紹介しきれないほどだ。


Duchessa di Parma Profumo

https://www.scentbar.it/en/shop/perfume/duchessa-di-parma-violetta-2/ 

Jewels Joy Violetta di Parma 

https://www.jewelsjoy.it/prodotto/violetta-di-parma-eaud-de-parfum-100-ml/?lang=en 

ルイージャのパルマスミレへの情熱は後のアクア・ディ・パルマを代表とするパルマの香水産業へと繋がる。
私財を投じて戦争で疲弊したパルマ公国を再建。心優しく派手なもの嫌った彼女にはスミレの愛らしい花がよく似合う。
今でもパルマの人々はカプツィーナ霊廟にルイージャの棺にスミレの花束を捧げている。
Viva, Maria Luisia!!

PARMA VIOLET
(VIOLA ODORATA — var. parmensis)

かくなるわたくしもスミレの愛好家である。スミレへの愛は以下をお読み頂きたければ非常に幸いだ。

2023年3月5日
一部情報を訂正。

出典

○『マリー・ルイーゼ―ナポレオンの皇妃からパルマ公国女王へ』上・下
塚本哲也 文春文庫
○『ナポレオン もうひとりの皇妃』
アラン・パーマー著 岸本完司 訳 近代文藝社
○『ハプスブルクの子供たち』
テア・ライトナー 間田淳子訳
○La Gazzetta dell' Emilia
Ducato di Parma e Maria Luigia, le celebrazioni del Bicentenario 
https://www.gazzettadellemilia.it/cultura/item/13567-il-ducato-di-parma-e-maria-luigia,-le-celebrazioni-del-bicentenario  

○MARIA LUIGIA DUCHESS OF PARMA 
http://www.parmaitaly.com/storia-k.html

○BORSARI PERFUMES
Parfumo Borsari Violetta di Parma
https://www.parfumo.net/Perfumes/Borsari/Violetta_di_Parma 

○PERFUME VIOLETTA DI PARMA: ITALY’S MOST FAMOUS FRAGRANCE
https://lifeinitaly.com/perfume-violetta-di-parma/ 
○その他の写真はWikipediaより。



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