自分を解き放つ
その日、ヨガクラスで、私は腹を立てていました。
直感で選んだ初めてのスタジオ&クラス。
ところが、時間になっても先生が来ません。
前のクラスを受け持っていた先生が遅れた先生のカバーに入ってくれたので、実害は何もありません。
なのに、私は憤っていました。
(遅刻するなんてプロ意識が低い。穴埋めをするはめになった先生もいい迷惑に違いない)
ちなみに、どちらの先生のことも私はまったく知りません。だから、心情などわかるはずなく、一方に肩入れする義理もありません。
にもかかわらず、目の前で起きた数分の出来事だけで、私は埋め合わせをした先生を「律儀で損をする人」と決めつけて同情し、遅刻している先生を「だらしなくて周りに迷惑をかける人」とジャッジして怒っていました。
ここから私はさらに大きな感情の揺れを経験することになります。
数年前の話です。
価値観が違いすぎたヨガクラス
「遅れてごめんなさいね!」
15分ほど過ぎて、担当の先生が慌ただしくスタジオに入ってきました。
ややぽっちゃりとした体型で、濃いめの化粧を施していたその女性は、私の思い描くヨガの先生のイメージとかけ離れていました。
(やっぱり…この人はきっと真剣にヨガをやっていない)
白状するのは恥ずかしいですが、私はそう先生を批判していました。
もちろん、気持ちを切り替えようとしました。
ところが、前の先生と交代を済ませたその先生は、おもむろに自身のiPhoneで80年代のロックミュージックを大音量でかけ始めたのです。
(な、何なんだ!? 飲み屋じゃあるまいし…)
たたみかけるように先生は大きな声を出します。
「ああ、この曲!この曲は私の大学時代の思い出の曲よ〜!」
……
…そのクラスは自分の求めていたヨガクラスではまったくありませんでした。
なぜお金と時間をかけて望まない体験をさせられているのか。
誰へともなく恨みが出てきて、挙句の果てには直感で選んだのが浅はかだったと憤慨の矛先は自分にも向かったのでした。
問題は価値観の相違じゃなかった
適当な理由をつけて帰ることもできたのでしょうが、そこまでの勇気はなかった私は、出てくる感情をそのままに、ひたすら体を動かすしかありませんでした。
でも、それが功を奏しました。
クラスが終盤に差しかかる頃には気持ちは落ち着いて、違う視点から出来事を捉えることができるようになっていたのです。
当初、私は、先生とは価値観が違うのだ、と思っていました。
でも、それだけなら、驚いたり、がっかりはしても、苛立って感情が乱れまくることはないはずです。
私がイライラしたのは、自分の価値観が固定観念になっていたからです。
・プロは時間に厳しくあるべき
・ヨガの先生はヨガの達人であるべき
・ヨガのクラスは静かに自分と向き合う場であるべき
でも、いうまでもなく、プロだから遅刻しちゃいけないわけじゃないし、ヨガの先生だからってヨガマスターである必要もないし、ヨガクラスが必ずしも内観の場にならなくてもいいんです。
私は自らの「〜べき」という固定観念によって自分を(無意識に)律して抑圧していたから、先生が自由にやっているのを見て、嫌な気分になっただけだったのです。
仏教では、見えない縄で自分を縛っている状態を「無縄自縛」というそうですが、私は固定観念という見えない縄で自らを縛っていたのでしょう。
ありがたいことに、その出来事のおかげで、私はその後、ヨガ講師になる一歩を踏み出すことができました。
本当は前から興味があったのに、「〜べき」の条件を満たせない自分は望んではいけないと、己の願望を押し込めていたことに気がつけたからです。
見えない縄は普段は見えにくいのですが、不快な感情という反応を通して浮かび上がってくることがあります。見方を変えれば、嫌な人や出来事は自分を制限から解き放つチャンスになります。
知らずのうちだったとはいえ縛ったのは自分ですから、自分で解くことができる、というか、自分しか解いてあげることができないのです。