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儒教を学ぶ②中庸「誠」

中庸と聞くと中途半端だったり、凡庸という言葉が想像されるかと思います。
しかし、「中庸」は儒教の正典とも言える「四書五経」の1つです。
但し、中庸は四書五経で一番難解ともされます。
その「中庸」を安田先生の本で学びます。

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「中庸」のポイント「時」

中庸のポイントは「時」です。
「時」とはタイミング。一瞬を捉えることです。

「論語」の有名な文に「学びて時にこれを習う。また悦ばしからずや。」がありますね。これは普通に捉えるとやりたいとなった時に学習する!という孔子の言葉のようですが、「時」をタイミングと捉えると少し変わってきます。儒教の訳は色々ありますが、「生徒が学んでいるときに絶妙のタイミングで指導をする、それにより、その生徒は羽を広げたように成長する。なんて嬉しいことだろう。」という意味にとることもできます。

「誠」

誠というと何を思い浮かべますでしょうか。
新撰組や誠実を思い浮かべるのではないでしょうか

誠者、天之道也。誠之者、人之道也。
誠者、不勉而中、不思而得、従容中道。聖人也。
誠之者、擇善而固執之者也。

誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。
誠は勉めずして中り、思はずして得、従容として道に中る。聖人なり。
これを誠にするは、善を択んでこれを固執する者なり。

中庸

上記は中庸の本文です。簡単に訳すと、誠とは「天命」であり、「人の道」である。聖人じゃない普通の人は努力して善を積み重ねてそれを守らないと天命は掴めません。という感じです。
天命です。スケールの大きな話です。

「子曰、吾十有五而志二于学一、三十而立、四十而不レ惑、五十而知二天命一」

孔子は50歳で天命を知ると言いました。
孔子の時代は今から2500年前。当時で50歳まで生きるのは大変だったのではないでしょうか。つまり、誠=天命を知るということはとても大変なことだったのだと思います。

しかし、孔子(とその弟子達)は、現代に天命を知る方法を残してくれました。
それが「博学」⇨「審問」⇨「慎思」⇨「明弁」⇨「篤行」のサイクルです。
学んで、自問自答して、悩んで考えて、言語化して、行動といった感じでしょうか。
これを実践することで人は「誠」に到達できると言っています。

そして「誠」を得た人は自分の天命を十分に尽くすことができるようになり、今度は他人の天命にも尽くすことができるようになり、次は物の天命にも尽くすことができるようになるそうです。

自分の天命だけでなく、他人の天命も発揮させる。それが「誠」です。

「誠」二宮尊徳(金次郎)

学校に二宮金次郎の像がありますね。あれは清貧を重んずる精神の象徴だと思っていたのであんまり好きではなかったのですが、安田先生の紹介により二宮金次郎の凄さを知りました。

二宮金次郎は世間で四書五経で一番難しいと言われる「中庸」を1番簡単だと言いました。それは前述のサイクルの話がそうですが、実践の学問だからです。そして二宮金次郎は「手本になるのは書物ではなく、天と地である」と言いました。自然ことが先生であるということです。
そして二宮金次郎は自然を手本に「誠」に近づきました。

二宮金次郎の凄いところは「素直さ」です。
深夜に火を灯して読書をしていた際、育ててもらっていた伯父さんに「お前に油を使わせる金はない」と言われました。
金次郎は怒ることもなく「そりゃそうだ。」と納得。自ら種子から油を抽出し、火を灯したそうです。そしたら、また伯父さんが「お前にそんなことはさせない」と言ってきました。伯父さんに迷惑を掛けていないのに「そりゃそうだ。」と納得します。
そして生まれたのが、薪を背負って本を読むという行動です。
こうして金次郎は実践を積み重ねた結果、「誠」を得ました。
金次郎は人に何かをしても決して見返りを求めませんでした。それは相手のためになっているからです。見返りが返ってきたらラッキーくらいの感覚の人です。

私たちは他人に対して「○○してあげたのに」とかよく思っているのではないでしょうか。
このような思考が「誠」を遠ざけると安田先生はおっしゃいます。
あらゆることを「ラッキー」と思うおおらかさも「誠」には必要なのです。

「至誠の道は以て前知すべし」という文があります。
「誠」に到達した人は未来予測ができるということです。
そして金次郎は茄子を食べて、その味で飢饉が来ることを予見し、人々を飢餓から救ったそうです。

「誠」になれなかった新撰組

誠と言えば新撰組ですが、「誠」に成りえなかったと安田先生は言います。それは新撰組の「誠」が非常に抽象的だからです。

前章の金次郎は「誠」が具体的だったのに対し、新撰組の「誠」は何を「誠心誠意」やるのかがはっきりしなかったと言います。
新撰組なので「幕府のため、天皇のため」という意見が返ってきそうですが、その辺りで御陵衛士と意見の対立が出て分断したりしています。
結局一人一人の誠が違う定義になってしまっているので新撰組はバラバラになったのではないでしょうか。

その辺りは侍JAPANとは違います。
目標・目的を共有し、全員の意思統一を図ることが優勝に繋がりました。

そして安田先生は抽象的であるが故に、それが容易に「べき論」になってしまうと言います。
例えば、「他人にはまごころで接するべきだ」と言ったときに「まごころ」とは何なのかがふわっとしている。ふわっとしているが故に、そこに疑問を持った人に対して「そうすべきなのだ!」という話になってしまいます。
まさに今日の学校教育の「道徳」のようですね。
道徳の危うさはこちらを参照ください。

「誠」をまとめると他人に「〜するべき」と強いるのではなく、自分を天命に気付けるように成長させていくことかなと思います。


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