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死を忘れるな!~自己啓発ゾンビアニメ×哲学者サルトルの言葉から感じたこと~

今回の参考作品&文献

こちらです!

ちょっと前のアニメ作品になりますが、非常にユニークな作品です!
感銘を受けたポイントや、それをきっかけに考えた事が多くありましたのでシェアさせてください!

あらすじ

ブラック企業に勤めて3年、アキラは心身ともに疲労しきっていた。
TVから流れるゾンビ映画を観て「会社に比べりゃ天国だよ」とつぶやいてしまうほどに。

しかし、ある朝、いつものように出社しようとした彼が見たものは、ゾンビであふれかえった街の姿だった・・・。

と、ただのゾンビパンデミックものかと思いきや、全くそうではありません。

一変した世界で、身近になった「死」に人生を照らし出された結果、逆にアキラの人生は輝き出します(笑)

「とにかく仕事に疲れた」「夢への第一歩がなかなか踏み出せない」「そもそもやりたいことがわからない」そんな悩みをアキラと一緒に、笑って吹き飛ばせる!

そんなゾンビパンデミック・青春・自己啓発アニメになります!

作品の魅力

描写のすばらしさ~カラフルに着色されゆく世界~

これは、アニメ版のみの演出なんですけど、世界がカラフルに移り変わっていくような演出が素敵です!

モノトーンの世界・支配される世界

社会や社会だったり大人だったり場合によっては両親なのかもしれないけれども

会社には「3年は努めなければいけない」
生きるために親や大人の「言う事を聞かねばなければならない」

などなど、何かから囚われているような精神状態って苦しいですよね。

主人公のアキラも、1週間に1回家に帰れるか帰れないくらいの超絶ブラックな制作会社に勤務、社員も毎日「飛ぶ」(いきなり出社しなくなる)のが日常茶飯時な現場で。

でも元々体育会ラグビー部の出身ということもあり、田舎の親父への見栄もあり、頑張らなくちゃ!って。

なんだかよく分からないんだけれども、辞めてはいけないと思い込み、働き続けて病んじゃうんですよね。

そういった物語序盤のシーンは、モノトーン中心に描かれます。

カラフルな世界・解放された世界

対して、ゾンビパンデミック後。会社にもう「行かなくていい」囚われから主人公が解放された後の世界は一転、カラフルな世界として描かれます。なんとゾンビが流す血の色も、スプラトゥーンみたいな感じで赤・青・黄色!とビビッドなインクのように描かれます。

これは支配から解放された主人公の精神変化を、色彩変化によって見事に表しているとも取れます。「生きる意味を照らし出す存在」という、本作ではポジティブに捉えられているゾンビの描き方としてもなんとも絶妙かつ斬新であります。

実は深い?テーマ性

メメントモリ

基本的にはポップ&ライトなノリで物語が進行していくオバカ作品ではありますが、

作品の根底には、「メメントモリ」という深いテーマ性が流れていることを強く感じます。

メメントモリというのは、「死を忘れんな」ってこと。つまり

「死を隣に置いてみて初めて今の自分の行き方が本物なのか偽物なのかが照らし出され、明らかになる。だからよく生きるためにいつも死を忘れてはならないよ!」

という、古くからある教訓です。

ゾンビという死の象徴が迫りくる世界。それとは対照的に主人公の生はむしろ輝きだします。

彼は、こう言います。

『俺たちの命があと1日だろうが、60年だろうが、やりたいことをやれる時間はあまりにも短い!』

『やりたい事ができないなら、ゾンビに喰われた方がマシだ!』

あなたの生き方、それでいいの?
かつての自分のように。ゾンビのように。「やりたい事」を忘れてただ生きながらえているだけじゃないの?その生き方でいいの?

アキラは、世界との向き合い方を通じて、そう問いかけてくる。そして背中を押してくれている。そんな気がしました。

特に、自分自身が生き方や進路に迷っている方には、主人公の思想や発言は強烈に心に響くはずです!

哲学者サルトルの死生観

ちょっと脱線、かもしれないんですけど。哲学者サルトルさんがこんなことを言っていたのを思い出しました。

「自己欺瞞によってしか老年の死を期待することはできない」

(存在と無、Ⅲ 松浪 信三郎訳、 271ページ)

僕らが一般的にイメージする死、というのは、
じーさんばーさんになった時になんかの原因でおっ死ぬ、みたいなものが多いと思うんですけど。

それって自分を騙しているだけなんじゃない?ってサルトルさんは言うんです。

偶然が死を決定している。
その可能性に目を瞑って騙し騙し生きてるだけだと。

一般的には死ぬことって、その人の完成形とかゴールみたいな感じの人生観を思い描くじゃないですか。人生ゲームの「上がり」みたいな。

でもサルトル的にはそれが人生の集大成!積み上げのゴールであれ!というのは人間の「願い」ではあるけれども実際はそうではないんじゃない?っていうんです。

で。ここからは自分が思ったことなんですけど、
別にゾンビが街にはびこっていても居なくても。死は意識してないだけで偶然に、やってくる。

死神なのか?神様なのか?果たして奪うのは何者か?そこはよくわかんないですけど。

とにかく人間の生を奪うものとしての「死」は僕らが思っているよりも遥かに近い距離感の所にあって。

でもそれを闇雲に恐れるんじゃなくて、主人公アキラのように、死に晒される事で逆に生を燃やして生きられたら理想型だよな~って思うんですよね!

理想論かもしれませんけど。生きる動力源にできたらなって。

人生が永遠であったなら

脱線ついでにこちらからも。

こちらの学者さんは、講義の中で「死ぬの逆=永遠」について考え、こんなことを言っていました。

人は永遠という空白を埋めることはできない
永遠にやりたいと思うことを考えつくのは不可能だ
記憶を定期的に失ったり強制的に快諾刺激を与えても、人が永遠を望むことはないだろう
終わりがないということは災いであり恵みではない

永遠に続くという事、終わりがないことは、
永遠に続く、永遠に繰り返す、新陳代謝しないってこと。
「ずっと続く」ていうと、ポジティブな言葉に聞こえるはずなのに、
そう考えると、なんだか大事なエネルギー源から逆に遠のいちゃうような感覚がある。

終わりに~終わらない夏休みなんてつまらない!~

夏休みが永遠に続くとしたら、結局何もやらないですよね?きっと。
でも幸か不幸か人生には「締め切り」がある。

死ぬのは怖い?ですけど、でもそれはたぶん絶対悪というものではなくて、その怪しい光はむしろ生きる事を照らしだすような側面がある。有限だからこそ煌めく何かがある。

締め切りがあるからこそ、人は動く。逆に生きる意欲が沸く。そういうところが人にはある。

今回は「メメントモリ」をテーマにしたアニメーション作品をもとに、「死」について考えてみました。

ちょっと重たいテーマでしたが、いかがでしたでしょうか?
この記事が、読まれた方のお役に少しでも立てれば幸いです!

今日もありがとうございました!

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