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「鍵穴から覗き込んでくる一般相対性理論」#シロクマ文芸部

 消えた鍵穴は覗けない。慣れないミステリー小説を書いている最中、主人公に「誰もいないはずの家の中に人の気配を感じ、鍵穴から中を覗くと、あちらからも見ていた目玉と目が合った」といった行動をさせようとした。しかし鍵穴から中を覗ける構造の鍵など残っているものなのか、と調べてみると、やはり古い時代の話のようで、構造上ピッキング被害にも遭いやすいので、作られなくなったようだ。
 鍵は電子化されて、鍵穴自体なくなった。生体認証を受けて、登録された人にしか開けないドアの向こう側からは、見知らぬ人の目玉が覗き込むこともない。

 鍵穴について調べたついでに、こんな慣用句をみつけた。

「鍵の穴から天を覗く」
狭い見識で大きな問題を考えることのたとえ。葦の髄から天井を覗く。

 鍵穴から外を伺うことが一般的だった時代に作られた慣用句だろう。一日中鍵穴から外を覗き、そこから見えた空に浮かぶ雲の形から、何かを思う哲学者の姿が浮かんだ。そのようにして見つけることの出来る真理やら発見もあったかもしれない。無限に広がる何事かを、意識的に狭く切り取って受け止める。ミクロがマクロに繋がり、玄関でしゃがみ込みながら手元には汚い文字で常人には理解出来ない思想が書き連ねられていく。

 そんな時代があったのだ、と私は鍵穴から外を覗けない部屋の中で、ミステリー小説の執筆を中断する。誰が読むというのだ。どこに出すというのだ。殺す人も殺される人もいなくなってしまった世の中で、私以外誰も生きていない世界の中で。古い時代に建てられた、過剰なまでの高さに積み上げられたビルの最上階で、虚しく私はキーを叩いていた。AIで統制されたシステムは律儀に電子機器を生かし続けている。

 原子時計と旧式デジタル時計に一秒の差が生じて、私はこの部屋に閉じこもってから百億日が経過したことを知る。地上と六百三十四メートル離れたこの部屋では、一日あたり百億分の一秒、時間の進み方が異なる。重力による時空間のゆがみ、いつか読んだ一般相対性理論の一例が目の前の原子時計で実証されているのを見る。その非現実的な時間の経過から、私はとっくに人間ではなくなってしまっていることに気が付く。全ての人類が滅んでしまった疫病から、自分だけは逃れることが出来た。過剰な免疫か特殊な体質かは知らないが、本来なら私も殺してしまうはずだったその疫病は逆に私を生かし、永遠のような時間を過ごすことを私に強制させてきた。

 なんてのはきっと間違いで、行き着くところまで進化したAI社会から生み出された、人間に似た形をしたロボットか何かなのだろう。何度も死ぬか壊れるかしても、再び再生させられ、無為な日々を送らされ続ける。AIの気まぐれだか、神の暇つぶしだか、人類の遺志か何かのせいで。

 私は時計のズレには気付かなかった振りをして、別の話を書き始める。あらゆる一人遊びや暇つぶしや学問やらに手を出してきたが、小説の執筆が一番楽しい。しかしまだ、完成させることの出来た話は一つもない。誰かに読んでもらいたくて書いているわけじゃないから、と思いつつも、ありはしない「誰か」を求め始めて虚しくなってタイピングの手が止まってしまう。そんな感情は余分なものだ、と私は思うのに、私を作り上げた何ものかにとっては必要なものだったのだろう。ありもしない鍵穴から、誰かが覗き込んでくれないかな、なんて思いながらまた別の話を書き始める。進化したAI社会で人類が滅んだ後も機能し続ける電子機器の残った世界で、一人小説を書き続ける、永遠の命を持ってしまった何ものかの話を書いてみる。

 原子時計と旧式時計の差が、気付けば二秒、ずれている。

(了)

シロクマ文芸部参加三回目

参考


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