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【ピリカ文庫】「夕グレ」(2004字)

 夕グレはゆうぐれ、と読む。たぐれ、ではない。

 夕方になるとグレるのでそう呼ばれるようになった。朝も昼も夜も優等生であるのに、夕方になるとグレた。非行に走った。素行不良となった。具体的な例をあげると、塾へ向かわず飛行場に向かって走っていったり、壊れて走行不能になった三輪車に無理やり乗ったりした。

 夕方以外の夕グレは人に優しく、ドブネズミのように美しく、栄光に向かって走る列車のような少年であった。夕方を過ぎて晩飯時になると元に戻ったので、両親はあまり心配することなく、そのまま夕グレは大きくなった。夕グレの周囲の人間も、夕暮れ時の夕グレを避ければ厄介なことにはならないと気が付き、友人が離れることもなかった。

 夕方の夕グレのことしか知らない女性もいた。空が暗くなり始めた頃合いに、車輪の二つ外れた三輪車に乗り、奇声をあげながら鋭い目つきで飛行場へと激走する夕グレの姿を、自分の部屋の窓から見守っていた。
「それはもう一輪車なのでは?」なんて思いながら。

 人生の夕方ともいえる、老年期にさしかかる時期に、夕グレは夕暮れ時だけではなく、一日中グレてしまうようになった。賭場に入り浸り、薬に手を出し、女を泣かせた。具体的な例をあげると、毎週宝くじ売り場でロト6を購入するようになった。それまで風邪を引いても複雑骨折をしても気合で一晩ぐっすり眠るだけで治していたのに、花粉症には勝てずに、ドラッグストアでアレジオンを買うようになった。初孫が女の子だったので、男児しか育てたことのなかった夕グレはうまくあやすことが出来ず、面白い顔をして笑わせようとして逆に号泣されてしまった。

 一輪の可憐な花に話を戻す。
 いや、そんな話はしたことがない。
「それはもう一輪車なのでは?」と夕グレに突っ込んでいた女の子は夕闇と呼ばれていた。空に月が輝き始める前、夕暮れと夜の間の時間だけ、夕闇は目が見えなくなった。定期的盲目症と呼ばれる稀有な病気で、本格的な夜が始まれば視力は回復した。夕闇はその間、直前に見た景色を反芻して過ごした。そのまましばらく眠ってしまうことが多かった。一時的に視力を失くした眼には、グレた夕グレの姿が繰り返し映された。夢の中で夕闇は夕グレの隣にいるのだった。走れるはずのない速さで、直接言えるはずのない言葉を交わしながら。

 夕闇と同じ病気を患った者は、大人になる前に視力をなくすか亡くなるかしていた。夕闇も覚悟はしていた。生きているうちに、目が見えるうちに、出来るだけ多くの美しい景色を見たいと願い、両親は夕闇を世界中に連れていった。視力の失われる時間になると、夕闇は記憶に刻み込むように、今見たばかりの大自然の絶景や、美術館に並ぶ芸術品や、自分の他愛もない冗談で笑ってくれた両親の顔を思い浮かべたりした。しかしそのどれもに割り込んでくるものがあった。夕暮れ時になるとグレて街を激走する夕グレの姿であった。やがて完全に視力を失い、長い時が経ち、多くの景色が彼女の記憶の中だけのものになってしまっても、夕グレは彼女の中で走り続けた。

 またいくらか年月が流れた。
 夕グレに二人目の孫が出来た頃、彼の素行は元に戻っていた。人生の夕暮れ時が終わりを迎えたのだ。宝くじの最大当選金額は四千八百円であり、花粉症は続いていた。一人目の孫は随分と大きくなって、夕グレの顔を見ただけで泣くようなことはもうなくなっていた。二人目の孫には、泣かさないようにうまくやろう、と彼は決めていた。秘策があった。子どもの頃に遊んでいたおもちゃを、倉庫に仕舞い込んであったのを思い出したのだ。自分が夢中になったものだから、孫たちも喜ぶはずだと思い込んだ。彼の妻は長く病んで病床にあった。目も見えなくなっていた。だから孫の笑顔を見せることは叶わないが、笑い声だけでも聞かせてあげたかった。しかし妻に聞かせてしまったのは、めちゃくちゃに積み上げられたガラクタが崩れ落ちる音だった。
「何してるの?」和室で臥せっていたはずの妻が起き出していた。常に閉じられていたまぶたが開かれていた。その視線は夕グレの探し当てた壊れた乗り物に注がれていた。
「三輪車を孫にあげようと思って」
「だからそれはもう、一輪車でしょう」
 夕グレが少年時代に毎日のように乗り回していた、壊れた三輪車を見て彼女は笑った。かつて夕闇と呼ばれていたその女性にとって、長かった人生の夕闇が終わりを告げていた。
「新しいおもちゃを買いに行きましょう。この間宝くじ当てたんでしょう?」
「しかしあれはお前と世界一周旅行に行くためのお金で」
「四千八百円で回れる世界ってどこからどこまでですか」
「揺り籠から、墓場まで」

「とりあえずあなた、こっちに来なさい」
「男前の顔を確かめるのか」
「夢の中でもまぶたの裏でもずっと見続けてきたので、今更いいです」
 それから二人はギュッと抱き合って、末永く幸せに暮らした。

(了)

(2004字)


 お題は「夕闇」でしたが、依頼を頂いてからずっと、T字路s「夕暮れ」を聴いていました。ザ・ブルーハーツのカヴァー曲。他にもちょいちょいブルーハーツを散りばめてみました。


 冒頭に「ゆうぐれと読む。たぐれ、ではない」と書きながら、推敲中はほとんど「たぐれ」と読んでいました。ごめんなさい。 

 案は三つ出し、一つは没に。もう一つは個人的な話になりすぎたために、「依頼されて書くものではない」と判断し、「音楽小説集」にあげました。「裏夕グレ」として、併せて読んでいただければ幸いです。


「個人的に書くこと」「人のために書くこと」の違いを意識するきっかけにもなりました。ピリカさん、ご依頼を下さりありがとうございました。


原案 「千人伝」より

百二十八人目 夕グレ

ゆうぐれ、と読む。たぐれではない。
夕グレは夕方になるとグレた。非行に走った。素行不良となった。具体的な例を述べると、塾へ向かわず飛行場に向かって走っていったり、走行不能となった三輪車に乗ったりした。

朝も昼も優等生なのに夕方にだけグレてしまう夕グレに教師たちは困惑した。夕飯時になると戻るので親は気にしてはいなかった。夕方の夕グレのことしか知らない異性もいた。同じ頃合いに壊れた三輪車に乗って奇声を上げながら鋭い目つきで飛行場へと向かう夕グレを、バスの中から見守っていた。「三輪車に乗らない方が早いでしょう」と思いながら。

人生の夕方ともいえる、老年期のさしかかりの時期に、丸ごと夕グレはグレた。賭場に入り浸り、薬に手を出し、女を泣かせた。具体的な例を述べると、宝くじ売り場に週一で通い、花粉症を発症したのでドラッグストアで薬を買い、初孫の女児をうまくあやせずに号泣させてしまった。

人生の夕暮れが終わって大人しくなった夕グレだったが、やはり夕方にだけはグレた。晩年になってもいまだに壊れた三輪車に乗って飛行場へと向かっていった。車輪が二つ取れた三輪車を見て、彼の妻は「それはもう一輪車でしょう」と言った。
(了)



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