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千人伝(二百五十一人目~二百五十五人目)

二百五十一人目 用事

用事はいつも用事を忘れてしまっていた。役所に行くたびに忘れてしまうのだった。病を経て、生活状況が変わり、たびたび役所へ赴かなければいけなかった。そのついでに、役所へ提出する書類の一つを出そうと考えていたのだが、別の用事を済ませすると、いつもそのことを忘れてしまうのだった。

用事は常時酷い耳鳴りに悩まされており、特に静かで閉鎖された空間において、耳鳴りは彼を圧し潰した。役所に行くたびに、ついでの用事を忘れてしまうのは、一刻も早くその場所から逃げ出したいがためだった。といったことはいつも後から気が付いた。

用事はたびたび役所に通いながら、同じ回数だけ当初の用事を忘れてしまった。同様の場所は役所以外に病院と図書館があった。病院に行くと、医者に伝えたいことを忘れてしまい、いくつかの症状のうちの一つの薬しか処方してもらえなかった。図書館に行けば借りたかった本の題名を忘れて、借りたくもない本を借りた。結局読めはしなかった。

提出し損ねていた書類のせいで用事は様々な支援を打ち切られて野垂れ死にしてしまうのだが、その頃には彼はどこに行っても耳鳴りに潰されていたので、自分の名前も髪も目鼻も溶けて落としてしまっていた。


二百五十二人目 五百文字

五百文字は何かしら文章を書いていた。五百文字区切りでものを書いた。昨日の出来事を思い出しながら五百文字を記した。規定文字数内でおさまるように、いくつものエピソードを削った。その記録を彼は公式のものとした。削られたエピソードは彼の記憶から消えた。後日、削ったエピソードに関わった人に「あの時の約束はどうなった」などと問い詰められても、彼は我関せずの顔をするのだった。

五百文字区切りで小説を書いた。どれだけ筆が乗っていようと、五百文字書けば他の話に移った。次第に彼は幾つもの話を並行して書くのが嫌になり、どのように長く長く長く長くなりそうな話でも、無理やり五百文字以内で終わらせるようになった。

数少ない彼の読者からは「もっと長く書けばいいのに」という声もあがった。離れた読者は「長く書いてくれたなら、長く読むのに」という声を残していった。

手段は目的と化した。五百文字はただただ五百文字区切りで何もかもを書いた。世界は五百文字で滅んだ。人生は五百文字で寿命を迎えた。ある日自分史を五百文字で書き上げた彼は息絶えた。「あなたの物語をもっと読みたかったのに」とかつて去った読者が追悼の声を寄せた。


二百五十三人目 髪鳴り

髪鳴りは髪の揺れる音も聴き取ってしまう聴覚の持ち主であった。人の髪は意外と揺れていた。人の声でも揺れていた。人の鼓動でも揺れていた。揺れは音になった。音は鼓膜を揺らした。髪鳴りはどのような音も拾ってしまう耳をちぎってしまいたいと思うこともあった。髪鳴りは些細な音を鳴らす髪の毛を抜いてしまいたいと思うこともあった。全ての鼓動を止めたいと思うこともあった。

髪鳴りにとって突然の轟音は大敵であった。つまり雷は直接被雷しなくとも、髪鳴りに大きな痛みを与えた。耳だけでなく全身が震える鼓膜となってしまったかのように、雷が鳴るたびにびりびりと破けてしまうかのようであった。雷に怯える近隣の犬が吠えるのも、余計に彼を苦しめた。

絶え間なく雷のなる大嵐の日、彼は自分の髪の毛を全てむしり取った。体毛も剃った。皮膚も本当は破ってしまいたかった。その前に彼の家の前にある大きな樹木に雷が落ちた。その衝撃で彼の鼓動は止まってしまった。

髪鳴りの耳は心臓が止まってもまだ機能し続けた。自分の命の途絶える音を髪鳴りの耳は聴き続けた。燃え上がる大樹が彼の家に倒れてくると、耳はとても嬉しそうに弾け飛んだ。


二百五十四人目 赤と青

赤、と青は赤を呼んだ。青、と赤は青を呼んだ。赤と青は生まれた時から対で育てられた。赤と青の違いは性別くらいだった。彼らは双子ではなく、ばらばらに捨てられていた孤児であった。あまりに似ていたものだから、裕福な暇人が鑑定までしたが、DNA的にも親族ではなかった。

赤と青は双子のように育てられたが血縁関係はなかったので、年頃になると互いを意識し始めた。その頃に赤と青の暮らしていた孤児院は焼けてしまった。異常に耳のいい男の家が燃え上がったために、隣接していた孤児院も焼けたのだ。赤と青は炎の中を逃げ回っているうちに、熱で固まり一つとなってしまった。赤と青合わせて一人の人間となってしまった。

以後赤と青は二人で一人として生きた。臓器も内部で癒着していた。手足も始めは四本ずつだったのが次第に二本へと収束していった。周囲の人間は彼らのことを赤と呼べばいいのか、青と呼べばいいのか、合わせて紫と呼んだ方がいいのか、と話し合った。「赤だよ」と赤と青の合わさった人が言った。「青だよ」と赤と青の合わさった人は続けて言った。自然と「赤と青」と呼ばれるようになった彼らは、初恋を実らせて一人で子孫も残した。

※ROTH BART BARON 「赤と青」を聴きながら。


二百五十五人目 酒飲み

酒飲みは酒をやめた酒飲みだった。酒飲みは未成年のうちに酒をやめたし、成人した瞬間にも酒をやめた。会社勤めを始めた時は出社直前に酒をやめたし、仕事中にも何度も何度も酒をやめた。

それほど熱心に酒をやめていた酒飲みだったが、すれ違う人たちは誰もが彼に「酒をやめろ」と忠告するのだった。小言はやがて勧告にもなった。彼は仕事を辞めた瞬間にも酒をやめたし、やけ酒を飲んでもおかわりの直前には頻繁に酒をやめていた。

人は意外と酒だけを栄養にして生きていけるものだと知ってからは、一食ごとに酒をやめた。つまり一日三度は酒をやめた。間食と晩酌の後にも酒をやめた。酒飲みが酒をやめる頻度はどんどん上がっていき、一日数十回も酒をやめるようになった。そんな彼に「酒をやめろ」と言う者は次第に減っていった。そのことを酒飲みは酒をやめた成果が出てきたと喜んだ。

偏った栄養は当然酒飲みの寿命を縮めた。数分ごとに酒をやめながら酒飲みは「もうすぐ死ぬのだから酒をやめなくても構わないのでは」と気が付いた。彼の死体は自然発火して蒸発した。その匂いに釣られてたくさんの酒飲みが彼の元に集まり、宴会が始まった。

※過去の自作を発掘していたら、「雲の降る日」という掌編にこんな一節を見つけたので。

「お酒やめなよ」と妻に言われた頃にはもうやめていた。「お酒やめなよ」と数年後娘に言われた頃にもやめていたし、「お酒やめなよ」と、妻子と別れた後に出来た年若い恋人に言われた時だってやめていた。

楢山孝介「雲の降る日」より


ハウリングを起こしているマイクが常に耳元にあるような耳鳴りは、ひょっとしたらずっと続くのかもしれません。


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