見出し画像

千人伝(百六十六人目~百七十人目)

百六十六人目 西村

西村は私小説家であった。露悪的に自身の経験を元にした小説を書いた。自身の記憶と経験を文章に置き換えていくとはいえ、モデルには脚色を加えた。自身の経験にも脚色を加えた。自ずと記憶は作品に置き換えられた。現実との齟齬は酒で埋めた。煙草の煙で隠した。西村はある日突然亡くなってしまったが、亡くなった後もなお自らのことを書こうとした。止まった心臓にはお構いなしに、ペンを持った指は原稿用紙の上を歩いた。作者の急死から遺体の発見までは七日間を要した。その間に書かれた原稿は千枚を超えたが、判別出来る文字は一文字もなかった。

百六十七人目 漱石

漱石は小説家であった。胃痛に苦しみながら毎日毎日新聞連載小説を書き続けた。自らの思い悩みが時代の思い悩みと同期していた幸福な時代であった。漱石は「それから」と書いた。そう書き出せば毎日何かしら文章が転がり始めるのだった。「それから」以前の話と繋がっていない場合、「それから」の文字は塗り潰された。書き出しが黒く塗り潰されている原稿用紙の数を数えて、編集者は作家の行き詰まっているのを感じた。
「先生、少し休まれては」と編集者が言うと「書きながら休んでおる」と言って聞かなかった。よく見れば常に書き続けているのではなく、万年筆は原稿用紙の上で空回りしているばかり、という時も多かった。漱石の傍らに置かれたサイダーは減ることがなかった。胃痛はやがて漱石の命を奪うほどに強くなり、「それから」だけで埋め尽くされた原稿用紙が最後に残された。

百六十八人目 浅川

「夜が明けたら」と漱石はある日場末のバーで浅川に向けてそう言った。
「思い悩みつつ、苦しみつつ、もがきつつも、夜が明ける頃にはいつも原稿は仕上がっているんだ」と言った。浅川は漱石を憐れみながらこう返した。
「夜の明けるのを知らない命もあるわ。朝に生まれて夕方には消える儚い命の持ち主たち」
「俺たちの話じゃない」
「あなただって明日の朝は迎えられないのよ」と浅川は漱石の死相を見て言った。
「既に亡くなってしまった人は、これまでの生きてきた時間を永遠に繰り返し続ける、という話があるの。あなたは既にその中にいるわ」
「こうして店の中でも書いているのだから」漱石は手を動かしていたが、ペンも握っておらず、カウンターの上には原稿用紙も置かれてはいなかった。
「夜は明けない」と浅川は言った。
「夜が明けたら」と漱石は言った。

百六十九人目 中島

中島は小説も書く作家でアルコール中毒であった。肝硬変で入院した病院で昔の友人の夢をよく見た。酒とドラッグでへろへろになりながら、初対面の女の家に泊まりに行き、暴れるような夢を。現実の記憶と幻想とが入り混じった夢を、友人の妹が叩き壊した。
「何を幸せそうに笑いながら寝ているのよ、このアル中が」と友人の妹は怒りながら言った。
「何で起こすんだ。君の兄さんと久しぶりに遊んでいたというのに」
「心臓が止まりそうになってたんです」と傍らの医者が中島を諭した。
「そんなことぐらいなんだ」
「死ぬところだったんですよ」
「だからどうした」
友人の妹にビンタされた中島の顔は、目だけが怒って口は笑い続けていた。

百七十人目 渋谷

渋谷はピアニストだったが、ステージでの演奏中でも平気で眠ってしまうような、どうしようもない人間でもあった。歌い手に起きるように促されて少しばかり目を覚ましても、数小節後にはまた鍵盤の上に突っ伏して眠り始めるのだった。
「あのピアニストはなんだ」と漱石は言った。
「あれも演奏の一つなのよ」と浅川は言った。
西村は酒と煙草を飲みながらドラムの音にだけ聞き耳を立てていた。
中島はアルコールに溺れながら、もうこの世にはいない友人と肩を組んでいた。
またピアノの音色が響き始めたが、渋谷は眠ったままだった。


入院費用にあてさせていただきます。