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千人伝(百四十一人目~百四十五人目)

百四十一人目 落音

らくおん、と読む。居間でくつろいでいる時に、洗面所の方で何かが落ちる音がした、ということがある。風呂上がりの同居人にこう聞いてみる「何か落としてた音してたけど」。意識しない駄洒落が発生した瞬間に生まれたのが落音である。

落音は偶然の出生によりなかなか仲間を得られなかった。似たような境遇の誰かと出会ってそのまま暮らし続けたかった。さまよい続けているうちに、落音は様々な音色に出会った。ため息のメロディや、いびきの歌声や、山鳴りのオーケストラなどに。落音は彼らの仲間となりたかった。しかし何かを落とす時まで彼の音色は響かなかった。

長い放浪の末に落音は命を落とした。その瞬間、世界中の人々が何かが落ちる音を聞いた。生前は誰にも振り向かれなかった落音は、死の瞬間に全ての人々を振り向かせた。

百四十二人目 諸人

もろびと、は多くの人、たくさんの人、ありすぎる人、増えすぎた人、が集合して一つとなって一人となった塊である。一人の身体にあまりにもたくさんの人々の魂やら不満やら心やらが同居しているために、それはもうてんやわんやでしっちゃかめっちゃかでヒステリックな毎日を過ごしていた。大人しく寝ているだけの者もいれば主張の激しい者もいるので、諸人は平等に全てを黙殺した。結果無表情で無感動で無機質な若者がひたすら歩いている図となった。人のいる所は苦手だった。自分の中の声と外の他人との声の区別がつかなくなるので、本当に話しかけられているのに気付かずに黙殺してしまいがちだったから。

人でない者の声は諸人に心地よく響いた。犬猫だけではなく、辺りには虫や小動物や植物や微生物の声が満ち溢れていた。それらは自分の中の多人数の声よりどれも心地よく響いた。諸人の目から自分で気付かぬ内に涙が流れている時は、生まれてすぐに捕食された何かの雛の声を聞き取っていたためだった。諸人が気付かず笑顔になっているのは、兄弟が全て失われてもなお、成長し初めての飛翔に成功した雛の喜びの声が聞こえたからだった。

諸人の最後は、自壊であった。内側から多すぎる人々が溢れ出して崩れて壊れてしまった。こぼれだした人々は人の形を成すことは出来ず、土の中に溶けて声も失くした。

百四十三人目 平凡

へいぼん、と読む。平凡な人であった。誰かと比べることも背伸びすることもしなかった。あらゆる平均値を集めたような人生を過ごした。それが幸福寄りか不幸寄りであるかは本人は知らなかった。それが良い人生であるか悪い人生であるかも本人は知らなかった。この世の全ての人間の平均的な人生というのがどちら寄りになるか、周囲を見渡してみれば想像出来ることである。幸福は瞬間的なものであり、不幸は持続的なものであるから。良い思い出は悪い思い出に打ち消され、突出した幸福者や成功者といった者の数はごく少数に限られているから。

平凡は平均寿命に辿り着くことは出来なかった。あらゆる数字はまやかしでしかなかった。平凡の死顔は安らかだったが、そのような表情作りは後から人の手でどうとでも出来た。だがその顔を見た他人は「きっと幸せな人生だったのだろう」と呟いた。

百四十四人目 風音

かざおと、は風の強い日に叫んでいた。台風の時など叫び続けた。日頃は言葉を発することの少ない、そよ風のような人であった。本当は様々なものを胸の内に溜め込んでいたが、周囲の人間を、また自分を傷付けたくなくて、風に任せて生きていた。

風音の叫びが鳴り響いたある暴風吹き荒れる日に、その叫びを漏らさず聞き取る者がいた。風雨に曝されることが好きな無鉄砲な彼は、風音の叫びに全て応えるべく、嵐の中を泳ぐように風音の部屋へと近付こうとした。あと一歩及ばず、彼は暴風に飛ばされて空へと消えていった。

風音は自分の真の理解者に一度も気付かぬまま、あまり長くない生を終えた。

百四十五人目 半分子

はんぶんこ、は両親の離婚と共に二つに割れた子である。横半分で分かれたために、臓器の不足に悩み苦しみながらも、平均寿命の半分ほどは生きた。人は一人分でなければ生きていけない、というのは思い込みからくるものでしかなく、半分に分かれても生きている半分子を見て、自らを分けたがる者は多かったが、全員失敗した。自分を引き裂く痛みに耐えられない者、引き裂いたはいいがそのまま息絶えた者などがいた。

半分子は不自由な暮らしぶりではあったが、不幸な暮らしではなかった。それぞれ愛する父と母の元で幸せに暮らした。一年ごとに父と母の元を交代し、途中からそれぞれに新しい妻と夫が現れたが、それらとも半分子はうまく過ごした。半分の身体にも愛情は一人分、いやそれ以上与えられた。

片方の眼から涙が流れると、遠く離れたもう片方の眼からも涙が流れた。片方の心が踊れば、もう片方の心も同じく激しく踊り出した。半分子は半分ずつでありながらも、結局は一人であるようだった。


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