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「モブキャラ」の記

詩の出版社から重量のある小包が届いて、開けてみると年刊のアンソロジーだった。ぼくも参加したような意味のプリントの一枚紙が同封してある。全く覚えがない。なにかの間違いだとは思ったが、一応確認してみた。やはりぼくの名前も作品もない。分厚い辞書のようなハードカバーで同じものが三冊。

最近は、ぼく個人宛の電子メールでも同じ文面の使いまわしで宛名が違っていたりする(元の宛名を変更してない)こともあった。

詩を書く人としての自己のアイデンティティの危うさを実感してしまう。”モブキャラ”としてのアイデンティティが確立されてしまったと思う。

ともかく着払いで返送するしかないと思う。

昔の人智学の知り合いで、当時から若い書き手として注目されていた人が、最近この出版社・詩誌で詩集・詩を出すようになったのは、ぼくがT先生に「現代詩の新鋭」として取り上げられた同詩誌を手渡した後だった。じぶんとしてはなにか関係があるようにも思えたが偶然かもしれない。

人文系の学者として成功していることは知っていたが、今朝、ツイッターで、彼が最近闘病生活に入ったことを知らされた。当時から明るいキャラクターで愛されていた人で、ウェブの記事(有料で途中まで)によれば(ある意味で専門の)死を前に明るい前向きな気分で仕事を選んでいるらしい。

若い頃の彼の記憶から一足飛びに老人としてのかれの写真を見せられることになった。最近はそのような経験が多い。

誤送されてきたアンソロジーには彼の名前もあったが、受け取った日には返送するつもりで読まないまま荷造りしてしまった。彼の消息を知った今は、少し気になってきたので、荷を再度開封して読んでみることにした。一ページ二段に収まった彼の作品は、海外に旅した記憶を反芻する内容のものだった。

アンソロジーに載せるために新しく書いたものか凡庸な習作の域を出ないもののように感じた(しかしそういう作品を書けるのは或る意味で詩人としての若さを示すものかもしれない)。自己の文章の出版が当たり前で、どのような文章でも書きなれた人がとくに力を入れないで詩を書くとこうなるのだろうか。

作品が印刷・出版される場合、貴重な機会として力を入れすぎて理解・共感されないことが多いじぶんには少しうらやましい気もするのであった。

アンソロジーに戻ると、ざっと見た限りでは、ぼくが研究会に顔を出していたころの面子は多くはない気がした。どこでも世代交代が進んでいるのだろう。読まないまま返送するつもりだったが、しばらく拾い読みしてからにするかもしれない(全編読み通す持久力はさすがにありません)。

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