椎名林檎と亀田誠治の「道楽物語」
日本を代表するアーティスト、椎名林檎。彼女を語る上で、忘れてはならないのが、亀田誠治さんです。亀田誠治なくして、椎名林檎なし。そして今では、椎名林檎なくして、亀田誠治なし、と言えるかもしれませんね。
そんな二人の物語は、まさに道楽的なんです。ということで今回は、この二人の「道楽物語」として、お送りしてまいります。
椎名林檎と亀田誠治
椎名林檎さんは、福岡県出身で、兄の影響もあり、邦楽や洋楽、クラシックなど、幅広い音楽を聴いて育ちました。その後、楽器を始めるようにもなり、バンドを組んだりしました。そんな中で、「プロミュージシャンになりたい」という思いが湧き、出場したコンテストでは、ヴォーカル賞を受賞しました。それがきっかけで、デビューのチャンスを手にしました。
しかし、知っての通り、独創性の高い彼女の音楽は今でこそ認知され、その地位を築いていますが、それは、結果が出ていたからです。結果として売れたから今がありますが、結果が出ていなければ、これから売り出すとなれば、リスクが大きくなります。
才能や魅力を感じていても、「それでは売れない」と言われ、話は進みませんでした。そこでプロデュースを任されたのが、亀田誠治さんです。
亀田誠治さんといえば、平井堅さんやGLAYなど、数々の有名アーティストをプロデュースしており、その数は200人を超えます。まさに、日本を代表するプロデューサーの一人です。
亀田誠治さんの過去
亀田誠治さんは子供の頃から楽器をしていて、元々はミュージシャンとしてデビューするのが夢でした。バンドの作曲やアレンジも手がけ、24歳の時、コンテストで評価されていましたが、デビューしたのは、ルックスが良かったヴォーカルや他のメンバー。亀田さん自身は、アーティストとして見られていませんでした。失意の中、「勉強がてら、スタジオにおいでよ」と追い打ちをかけられ、屈辱と挫折を味わいました。
それでも、腐らずにスタジオに顔を出し、自分にできる仕事と向き合っていくことで、裏方の仕事は、自分がやってきたことと同じだということに気付きます。それから2年間、デモテープを作りながら、人一倍目の前の仕事と向き合っていきました。
その後、亀田さんの楽曲が採用されるようになり、現場でも認められるようになりました。亀田さんは、どんな仕事でも引き受けて、要求以上のものを出す為に全力を尽くしたそうです。
そんな時間を8年も過ぎた後、ついに、椎名林檎さんとの運命の出会いが。
椎名林檎の成り立ち
その前に、椎名林檎さんを語る上で、避けては通れないことがあります。
林檎さんは、インタビューなどでもよく言っているのですが、世の女の子の為に歌っていると言っても過言ではありません。
というのも、林檎さんが15歳の時、誰とも知らない同い年の女の子が自殺したそうです。林檎さんは、生まれながらにして、先天性食道閉鎖症という病気を持って生まれてきました。手術をして、後遺症は残ったものの、自分のことを、「命を助けてもらった存在」だと思っていたそうです。
命を助けられた林檎さんにとって、自ら命を絶った女の子の存在は、自分にとって表裏一体のように感じたそうです。それがきっかけで、苦しむ女の子を少しでも元気付けたいと思い、歌手になる道を志しました志しました。音楽に専念する為にも高校を中退し、バイトしながら曲作りに励んでいたそうです。
そういった経緯があり、今の椎名林檎があると感じています。そして今でも、女の子だから共感できることを、現在進行形で伝えているのは、変わりません。
また、インタビューなどでの発言を見ると、殿方に対しては厳しめな意見が多いんですよね。林檎さん自身、男性に嫌な思いをさせられたことがあったり、周りで男性に苦しめられた人がいたのかもしれませんね。何より、林檎さん自身が、女の子の為にしか歌ってないので、
「男は勝手な生き物なんだから、勝手に生きれば?」
とでも思っているのでしょう(^^;
ちらっとそんなことも言ってました(笑)
ともかく、林檎さんにとって「女の子」は、生きる目的であり、神様なんだそうですから。
椎名林檎デビュー
18歳の椎名林檎さんは、レコード会社のトップでもある東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)から才能は認められながらも、その才能を活かすことができず、手に負えなかったそうです。そこで、亀田さんなら何とかしてくれると思われ、ある意味押し付けられたのでした。
いざ会うと、彼女の世界観に惚れ、音楽性に深く共感し、意気投合したのです。お互い認め合い、それからデモテープ作りに励みますが、「これじゃ売れない」と言われ続けてしまいます。それでも亀田さんは、頑として聞かず、否定的な意見を林檎さんに漏らすことなくかばい続けました。林檎さんらしい独創性の高い曲を作らせて、出会いから1年後、ついにメジャデビューを果たします。
デビューしてからは「新宿系自作自演屋」という肩書きで『幸福論』『歌舞伎町の女王』などがヒットし、『ここでキスして。』でブレイク。1stアルバム『無罪モラトリアム』は、ミリオンセラーを達成しました。
(これは不朽の名盤ですね)
そして、椎名林檎デビューから6年。ライブのバックバンドも務めていた亀田さんたちを誘い、「東京事変」を結成。亀田さんは奇しくも、師匠と慕う椎名林檎さんをプロデュースし続けたことで、夢だったメジャーデビューを、40歳にして叶えることができたのです。
せいがおかげになった東京事変
亀田さんは、ベーシストとしても相当な腕前ではありますが、ミュージシャンとしてデビューしていたら、今の亀田さんはおそらくないでしょう。それに、椎名林檎さんも誕生していないかもしれません。成功への最短距離を行かず、目の前と向き合い、遠回りしたからこそ今があるのではないでしょうか。ミュージシャンとしてデビューしていたら、もしかしたら鳴かず飛ばずで、その才能は埋もれていたかもしれません。つまり、遠回りのように見えて、それが最適な道だということです。
良くも悪くも、「タラレバ」を言ってもキリがありませんが、きっと目の前には、色んな道があります。舗装された道を行けば、早く進めるかもしれません。しかし、それで成功できたとしても、そこに面白みや、苦楽を共にした仲間はおらず、虚しいものかもしれません。
遠回りでも、楽しめば最適な道
「道草を楽しめ、大いにな。
欲しいより大事なものが、きっとそっちに転がってる」
『HUNTER×HUNTER』のジンの名言にして、道楽舎のテーマの一つでもあります。
「メジャーデビュー」することも成功かもしれませんが、若くしてその才能を発揮してメジャーデビューしていたら、屈辱と挫折を味わい、どんなことでもがむしゃらに働いて身につけた能力や信頼はなかったかもしれません。
人は、苦労するからこそ成長します。才能があったのに、認められない屈辱を味わっても、腐らずに努力し続けたからこそ、運命の出会いがあり、思いもよらない形で、夢が叶ったのです。これぞ、「せいをおかげに」した、感動の物語ではないですか。
ただのサクセスストーリーではない、まさに「道楽物語」として、道楽舎としても、この二人の物語を記しておきたいと思います。
必ずしも、目標に向かって進んでいけばいいわけじゃない。仮に夢を諦めたとしても、イマココに生きて、今できることに向き合っていけば、逆説的に、夢は叶っているということもあります。そんな亀田さんのような夢の叶え方は、とても道楽的で、魅力的だなと思います。
今回のコラムは、とある動画を観たことがきっかけで生まれました。椎名林檎さんと亀田誠治さんのショートストーリー動画があるので、ぜひチェックしてみてくださいね!
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