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【Shake it off. vol.064】 SNS程人格の出るものはないのかも知れない

先日、小学校時代からの仲である友人と久々にキャッチアップした。高校卒業と同時に働き始めた彼女は、私たちが当時学生だったこともあって友人の中でもずば抜けて大人びていたし、社会人として切磋琢磨している様子が頼もしかった。そんな彼女は着々とキャリアを積み、今は子育てしながらまだまだキャリアアップに意気込んでいる。そんな彼女が最近SNSに投稿していた写真から私が感じ取ってしまったあることについて唐突に聞いてみた。

ねえ、無理してない?と。




写真が語るもの

その写真には仕事と子育てに大忙しなのにも関わらず、完璧な夕飯が映し出されていた。それを見て本当に素晴らしいなと思ったのだが、同じくらい最近大丈夫だろうか、無理しすぎているんじゃないだろうか、と思わずにいられなかった。そのことを話すと私の予感は的中、相当頑張り過ぎている様子だった。

ここで突然だが、私は数年前にInstagramを辞めた。

当時私の隙間時間はかなりInstagramが占めていたと思う。フリーランスになったこともあり、事業の記事をアップするためにどのように写真を撮りどのような文章を載せようか、そのことで頭がいっぱいだったしやらなければいけないという気持ちが大きかった。だからもちろんちっとも面白くないし、アップすればするほど私がやっていることがちっぽけで軽い感じに思えてきてならなかった。この切り取ったもののみで評価されることへの違和感は次第に大きくなっていった。でも面白いことに自分がアップするものに対しての嫌悪感はあるのに、他人がアップする美しいものや完璧なライフスタイルを眺めることは辞められない。見ては羨ましいな、いいな、素敵だな、或いは私もそれが欲しいな等、購買意欲を駆り立てられたりし、私の隙間時間はどんどんそういった思いで埋まり物欲も増した。

でもある時気が付いてしまった。

切り取られたこれらが私の全てではないのと同様、みんなのそれらもみんなの全てではないと思っていたけれど(そう思うように思い込ませていたけど)、切り取られたそれもこれも全部全部私で、その人そのものだということ。要はSNS程人格の出るものはないのかも知れないということを。

私は数年前にInstagramを辞めた。私にとってそれは面白いものでなかったし、距離を一度とったらどうなるかを試したかったから。そして現在もInstagramはしていない。それも私という人間の人格が出ているな、と感じるのだ。

最初にそれを言ったのは夫だった。

私の周りでも夫はあらゆるものとの距離感を保つことに優れていると感じていた、当然SNSともだ。でも言われた時はハッとしたのを覚えている。だってずっとこれは自分じゃないと思っていたそれが覆されたのだから。でもそれこそ本質なのだろうとすんなり書き変わったのと同時に、SNSの見え方も書き変わったのだ。実にシンプルなことだったんだなって。




話を最初の友人に戻すと、何でも完璧にこなす自分を褒めて欲しい、認めて欲しい、とどこかで思ってしまい写真を投稿し続けていたと語った。それも彼女の人格なんだと思いながら、そんな彼女を私は丸ごと愛している。素直じゃ無いからこそSNSに現れた彼女なりのヘルプだったんだと理解した。話し終わった友人はどこかスッキリした表情でいつもの彼女に戻っていた。

何気ない日常の一コマから、誰かに気づいて欲しいというヘルプがSNSにアップされているかも知れない。そんなことが大切な人から読み取れたとしたら話を聞いてあげることしかできないかも知れないが、気が付ける自分でもありたいと思うし、1人でも気が付ける人が増えたらもっと地球は愛で満たされるな、とも思うのだ。

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