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動物から考える社会運動⑦【前編】日本特有の問題〜生き物から食べ物へ

わたしたちはなぜハラスメント運動/野宿者支援をしながら動物の運動をするのか?——動物問題連続座談会の一回目第7弾。野宿者支援・労働運動など複数の問題に携わってこられた活動家の生田武志さん・栗田隆子さんをゲストにお呼びし、交差的な運動についての議論を深めていきます。

【参加者】
深沢レナ(大学のハラスメントを看過しない会代表、詩人、ヴィーガン)
生田武志(野宿者ネットワーク代表、文芸評論家、フレキシタリアン)
栗田隆子(フェミニスト、文筆家、「働く女性の全国センター」元代表、ノン・ヴィーガン)
司会:関優花(大学のハラスメントを看過しない会副代表、Be With Ayano Anzai代表、美術家、ノン・ヴィーガン)

*記事化にあたり、動画の内容を加筆・修正しています。


いかにして家畜たちは「生き物」から「食べ物」になったのか?


——特に日本固有の問題があるとしたらどんなところでしょう? また、なぜ日本だとアニマルウェルフェアが進まないのか、その理由はなんでしょう?

深沢 さっきの動画の中でも特にわかりやすいのは、生きたまま茹でられる鶏の数(放血不良数)が増えているところなんですよね。鶏って、生きたまま茹でられると肉が真っ赤に腫れちゃうから廃棄されるわけで、それって企業にとっても何のメリットもないのに、対処がされないまま。そういうところはすごく日本ぽいと思います。

*表は以下を参照に作成 https://www.hopeforanimals.org/slaughter/red-skin-chickens/


栗田 
合理性がない。

深沢 うん。日本は古い既存の悪いシステムをなくすのがものすごく下手なんだろうな、というのは思います。

——日本の畜産のシステムが効率悪いということは薄々みんな気がついているのに、全然変わらないということの理由はなんでしょう?

栗田 それって畜産の問題を超える部分もありそうだよね。いまだに国会議員がFAX使う、みたいなさ。労働問題とも関わってきそう。「この方法が慣れているんだから(そのままのやり方にする)」という人の意見が強いとかさ。「これが良いか悪いか」でぶつかるんじゃなくて、「わたしは/俺はこれでやるんだ!」みたいな人の声の強さで押されるとか、そういうことも合理的なやり方に移行しない理由なのかなと思っちゃう。

生田 一つはやっぱり、消費者が安い肉とか魚とか牛乳を求めていて、それに政治も経済界も協力しているということもあると思うけど、でもそれを言ったらアメリカもヨーロッパも同じなはずで、やっぱり日本はちょっと異常だと思うんですよ。いろんな問題がある中で、障がい者問題・女性の問題・セクシャルマイノリティの問題・貧困問題は、ある程度日本は欧米の動きを追っかけている面がある。もちろん全然追いついてないところもあるけど。でも、動物問題については欧米で言うと1960年代くらいのままで止まってしまっていて、それは異常だと思うんです。

 僕もこれは前から不思議に思ってたんだけど、一つは、特にヨーロッパの場合は有史以来、畜産が産業としてずっと続いている。よく言われることだけど、伝統畜産だと、自分たちが大事に育てて、自分たちで絞めて、解体して食べる、ということが連綿と続いてきているから、ある程度、動物の命を重んじて育てて、なおかつ覚悟を持って感謝していただく、みたいなことは伝統的にあったと思うんです。でも日本では、そう歴史がほとんど途絶えている。日本は肉食禁止令があって、これ自体はむしろ良かったと思うんだけど、動物を育てて自分で殺して食べるという経験をほとんど持たないできた。でも明治になるといきなり、工業的な畜産を全面的に導入していって、動物を育てて自分たちの手で締めるということをまったく経験しないで純粋な消費者になっちゃった。そういう意味で、初めから自分の手を離れたところに畜産があるので、それを変えようという意識もまったく働かない、ということが歴史的にあると思うんですね。

【肉食禁止令】
日本では、675年(飛鳥時代)天武天皇により最初の肉食禁止令が発布された。それから、明治時代に政府が肉食を奨励するようになる1871年までの1200年間、国家が肉食を禁じつづけるという世界的に見ても他に例をみない状況が続いた。

*参考 生田武志『いのちへの礼儀』(前述)

 これは不登校問題でも似たところがあって、今度、何人かで一緒に出す本の中で貴戸理恵さんが言っていたことだけど、日本は国が強引に義務教育制度を敷いて一挙に学校制度を広げて読み書きや計算ができる労働者を量産して、「富国強兵」の方針で工場や軍隊を作っていった。欧米の学校や工場を純粋に移植したために、そのためのひずみをずっと抱えているということがあるというんだけど、畜産や肉食にも似た面があると思うんです。SDGsがあれだけ言われているのに、アニマルウェルフェアとか畜産の問題がこれだけ言われないのは、世界的にみても異常だと思いますね。

栗田 さっきアニマルライツセンターのHPで、SDGsと畜産の問題は関わっているよ、という記事を見つけました。家畜用のトウモロコシばっかり作っちゃうと、人間にわたる食料は得られないし、飢えは畜産の問題でもあると書いてあったと思うんだけど、日本では今もまだ生きたまま茹でられる鶏が増えているというのは・・・。

 わたしの好きなフェミニストの山川菊江は、社会主義者で反戦の立場だったから、戦争中仕事がなくなっちゃって、そういうときに養鶏をやるんだよね。うずらの卵を作ってたりしたんです。あと、うちの曽祖母が鵠沼に住んでいたのですが、その曽祖母も養鶏やっていたんですよ。うちの曽祖母は、自分の息子が兵隊に行って戦死して遺族年金と養鶏の卵で生計を立てていた。かつては自分で鶏を絞めたことがあるよという人も身近にいなくはなかった。それがわたしが小学校のときだから、1980年代以降くらいからいなくなっていくわけだよね。明治からもちろんそういう動きが進んでいるわけだけど、どんどん工場化・機械化が進んで、人が手がける要素を(畜産の中で)なくすことを加速させて、今に至ってるんじゃないかな[注1]。

[注1] 栗田追記

「なぜ養鶏場は巨大化したのか──採卵養鶏の実際を知る」(https://agri.mynavi.jp/2021_03_02_149971/)によると

「農林水産省によると、採卵養鶏の事業者は1962年に380万戸以上いた。それが2015年の農林業センサスでは4000ほどに減ってしまっている。この50年超の間に激烈な変化があったわけだ。北海道大学大学院農学研究院研究員で僧侶の大森隆(おおもり・たかし)さんは『1991年が節目』と言う。『1990年に1戸当たりの飼養羽数は1583羽でしたが、翌91年に1万3792羽に達しています。小規模業者が、廃業や倒産に追い込まれていったんですね』」

『戦後養鶏業地域の発展と経営形態』長島弘道 【地理学評論42巻1号(1969年1月発行)所収】によると、「これまで養鶏といえば庭先養鶏・副業養鶏が主であった.今日でもこの種の経営は広く残存している.しかし一方には専業養鶏,企業養鶏が成立し,大規模飼養者の比重は年々高まってきている.飼養規模の拡大によって飼料は自家配合飼料から完全配合飼料に移り,鶏も優秀な個体よりも群飼育に適したものが要求されるようになった」とあり、戦前はもちろん戦後も庭先養鶏、副業養鶏は1960年代までは主流であったことが窺える。

 しかし、卵の供給過剰による卵の価格の下落を理由に1974年、国による「生産調整」が行われた
「生産調整」とは何か。再度「なぜ養鶏場は巨大化したのか──採卵養鶏の実際を知る」を引用したい。

「一定規模以上の業者の増羽を制限し、無断で増羽した場合は農林省(現・農林水産省)の補助や融資が受けられなくなり、鶏卵の価格安定基金に加入できなくなるというペナルティーを科したが『ところが、採卵養鶏の生産調整は、抜け道を見つけて飼養羽数を増やす業者が絶えず、有名無実になってしまいました」(大森さん)表向きは協力するように装いながら、隠れて増羽する、あるいは子会社を作って、子会社に増羽させるといったすり抜けが横行したのだ。加えて、大手は資金力があり、補助や融資、基金の給付を受けられなくても経営が成り立つところが多く、生産調整を意に介さない業者もいた。そのため、生産調整の影響をまともに受けたのは、増羽の意欲の高い企業的な経営ではなく、生産調整で守られるはずの中小業者だった。『生産調整は結局、大手をさらに発展させることになりました』(大森さん)

 庭先養鶏・副業養鶏から大規模養鶏への変化は1974年あるいは1991年という比較的最近にその節目があった
ことは記憶していた方がいいように思う。
 また2005−2020年でも採卵鶏やブロイラー飼育の団体経営体の割合が個人から法人へと変容が大きい(特にブロイラー)【令和3年度食料・農業・農村白書の概要から】。

(図中の赤い四角は栗田が記入)

 その変容=バタリーケージの増加と簡単につながるわけではないとしても、副業的個人養鶏は壊滅し続けている現状であることは注意しておきたい。


生田 それこそ1970年代あたりから、子どもが鶏を描くと4本脚で描くようになってきたわけです。鶏が生き物じゃなくて、食べ物になっちゃったわけだよね。

栗田 いきなりパックであるものというか。

生田 そうそう。チキンナゲットとか「からあげクン」になっちゃった。

栗田 まだ戦中・戦後は、副業の形で養鶏をやる日本人もいたわけなんだけど、それがわたしが小さい頃から加速度的にどんどん畜産工場の形で卵を産ませるようになっている。しかも日本は全然油断ならなくて、現在進行形でそうなっている(畜産工場を拡大させていく)怖さがある。EUやヨーロッパ諸国みたいに改善に向かうというよりも、「バタリーケージもウェルフェアだ」と言うような、違う流れが出てきちゃったりだとか、日本はまだまだ気をつけていないと、より悪くなるくらいの状況じゃないかと、話を聞いていてドキドキと胸騒ぎがしました。

生田 養鶏の集約度のグラフも、指数関数的に上がってるもんね。

栗田 明治に近代化されて増えたのならまだわかるけど、効果指数関数になっているわけじゃん? 要するに、近代のわれわれに近い状況になってくればくるほど伸びてるという、その怖さというか、それがなぜかということを考える必要があるんだと思います。

田島淳史『最新版 図解 知識ゼロからの畜産入門』(家の光協会、2023)より



「工場畜産税」は実現可能?


深沢 生田さんが『いのちへの礼儀』の中でおっしゃっていた、「工場畜産税」はどのくらい現実的なんですか?

生田 工業畜産税を課して、それをアニマルウェルフェアに使うという提案ですね。今のところ世界的にもないみたいです。提案としては、イギリスのシンクタンク「王立国際問題研究所」が環境税の一つの「炭素税」を牛肉に課税して、それを果物や野菜、豆腐(肉の代替品になる)などへの補助金にする提案をしていたり(2015年)、デンマーク政府の外郭団体「倫理理事会」が、温暖化防止のために赤身肉に環境税を課すことを提言しています(2016年)けど、現実の税制は、「工業畜産税」と言うにはまだまだ遠いと思います。炭素税みたいに違った形では実現されているので不可能ではないと思うんですけど、まだこれからでしょうね。

栗田 炭素税というとどういったふうにとるのかな? 税金の取り方としては消費税みたいな形? 要するに消費者が払うような形になるのか、企業が払う形になるのか。

生田 炭素税は、企業が払うと自動的に価格が上がるので、消費者も負担する形になるよね。炭素税は、最初がフィンランドで、それからいろいろな国で導入されてます。日本でも「地球温暖化対策のための税」(環境税)という形で2012年に導入されたけど、工場畜産税としては機能していないですね。

栗田 今、インボイス制度のことを勉強しているんだけど、消費税というのは一見消費者が払っているじゃない? 100円のものを110円。でもこの10円が全部税金になっているわけじゃない。消費税の支払いは「企業の売上の10%」ということになってるんだけど、その10パーセントが本当に税金として納められているわけじゃない。そのなかでいろんな控除があって納税されているから。炭素税とかも実現段階になったら、それがまっとうに炭素を減らす方に働くかどうか、工場畜産税だったらバタリーケージを減らす方向に働くかどうか、というのは、次の段階として問われそうだね。日本はまだそこまでいかないから、とりあえずアニマルウェルフェアについて広めるしかないけれども。


ペットの尊厳——人間の「癒し」と化した犬猫たち


生田
 ペット問題と比べて畜産問題がひどいというのはたしかにそう思うんですけど、伝統畜産から工場畜産に変わった変化と、従来の犬猫の問題と現代の家族ペットの問題はパラレルで、似たところがあると思うんです。野生動物についても、従来放置されていたのが国家が介入してきて、保護と排斥が強まった動きがあるけど、家庭動物と家畜動物と野生動物の扱いは、この数十年で大きく変わったと思うんですね。

 栗田さんが『ぼそぼそ声のフェミニズム』で、「男性が女性に対して、頭を上から殴るのも、頭を撫でるのも、こぶしがグーかパーかの違いはあるものの、どちらも頭の上に手があることには変わりはない」と書いている。これは「気持ち悪い男たち」というところで話が出てたんだけど、つまり、女性に対してわかりやすい暴力を振るう男と、気持ち悪い男の違いは、上から頭を殴るか、頭を撫でるかの違いで、その支配の構造には変わりがないという話なんだよね。これは動物の問題についても似ていて、僕たちは動物工場とか動物実験で、動物をグーで扱っているじゃないですか。虐待している。でも家庭ではパーで撫でるんですよ。撫でる方が相対的にマシなんだけど、でも、わかりやすい暴力を振るう人間と、動物に癒しだけを求める気持ち悪い人間は、上から動物を利用してその尊厳を顧みないことには変わりがないのかもしれないとも思うんです。

 さっき、「尊厳」というテーマが出たけど、現代のペットの扱いは、たしかに「家族」のようになってきたけど、尊厳を尊重しているんじゃなくて、自分の癒しになっているだけじゃないかという面もある。そういう意味では、もしかしたら、とても大事にされているようなペットたち——コンパニオンアニマルも、家畜動物の工場畜産の扱いと、実は似ているのかもしれないと思うことはあります。そういう意味で、工場畜産の動物たちの扱いを変えるのと同じように、ペットの扱いについても、「動物の尊厳とは何か?」というところから改めて考えていかなければいけないと思っています。

 ペット産業の問題もあるけど、海外ではペットのクローンも作られていますよね。つまり、自分のペットが死んだときに遺伝子を保存しておいて、完全に同一のペットを作っちゃう。すでにかなり産業化されてるけど、そういった問題もふくめて、人間と動物の関係を考え直していくべきだろうと思っています。

栗田 そんなSFみたいなことしてるんだ。

【クローン技術】
1996年にスコットランドのロスリン研究所でクローン羊ドリーが誕生して以来、クローン技術の研究が進められている。家畜やペットのクローンはすでに実現しているが、安全性や倫理の問題から議論が続いている。ドキュメンタリー『キング・オブ・クローン』では、最先端の研究の栄光の裏で、研究不正や卵子提供における倫理的問題などがあった様子が描かかれている。

参照 枝廣淳子『アニマルウェルフェアとは何か 倫理的消費と食の安全』(岩波書店、2018)


栗田 わたしの書いたグーとパーの話を最初に考えたときは、「撫でることはいいことだ」みたいに思っていたりすることもふくめて「気持ち悪い」と書いたんだけど、でも動物でも、ペットの動画はすごく伸びてるし、YouTube見るとそういう動画で経済動いているようなところもあったりする。しかも「かわいい」ということに対してなかなか誰も抵抗できないし。わたしも「おお、かわいい」と思っちゃったりするんだけど、「でも待てよ?」という気持ちがはたらくような動画も結構あったりする。

 さらに考えちゃうのは、結局、日本は犬だって昔は犬小屋を立てて外で飼っていたけど、コンパニオンアニマルになっていって、今は犬だって外じゃ寒いから部屋の中に入れよう、猫は必ず家で飼わなきゃだめだよ、という話になっている。それそのものは悪いとはいえないんだけど、動物がいられる空間というか、野原みたいなところがない。また山に住んでいた動物たちは、環境破壊とかで人里に降らざるを得なくて、でもそうなると動物がいられる空間今度はいきなり射殺させられざるを得なくなっちゃう。さっきの子どものサードスペースじゃないけど、本当に動物も居場所がないというか。

生田 そうですね。ただ犬や猫の室内飼いはある意味仕方がなくて、昔みたいに殺処分しなくてすんでいるのは室内飼いの影響もあると思うんですよ。ただ、結局、動物を飼うということは、去勢手術をしたり、紐でつないだり、外出制限したり、どう考えても奴隷状態なんですよね。人間にそんなことしないから。それでも、相対的には殺処分よりはマシなんです。家畜動物もそうだけど、家庭動物も矛盾の上に成り立っているわけで、そこでの「可愛がる」というのはなんなのか、ということは考えれば考えるほど複雑ですね。

栗田 それこそ動物を飼っている人にそれを言うと、責められてると思われて大変な会話になったりするんだけど。動物を飼っている人一人一人を責めはしないけれど、構造としてどういうことなのか、ということを考える余地くらいは残してもいいと思うんだよね。

生田 現実的には、ペット産業で買うのはやめて、保護猫・保護犬を飼うべきだろう、と思うけどね。

深沢 そうですね。だからそういう議論の余地も残しつつ、じゃあ現実に今ベストなことは何ができるか?ということを割り切ってやるということ、両方大事だと思います。「可愛がるのもある種の虐待なら、もう何やったって意味ないじゃないか」と、そこで問題から離れちゃったら本末転倒だから、どうなんだろうなと考えつつ、「でも、今はウェルフェアやるしかないよね?」と、そこを諦めないでやっていく。その両方が必要なのかな、と思います。

生田 動物問題を話すと常に極論が飛び交うんですけど、そうじゃなくて現実的にできることいっぱいあるので、それをどうやって広めていくかということが重要だと思いますね。

栗田 とにかく、さっき関さんが言っていたみたいに、「知る人はどんどん知り、知らない人はまったく知らない」というセクハラのときの構造はいろんなところにあって、動物のこともそうじゃない? 

 よくレナさんが言っているみたいに、全然動物を食べてない人がアニマルウェルフェアを広めている日本の現状——人間が動物を食べるのを許容しつつ、でもどうやったら動物に極力痛みや苦しみを感じさせないようにするかという話を、全然動物食べない人がしているというのは、いくらなんでも・・・という話を前にしたけど、知識とかそういう経験を積む人はどんどん積むが、知識や経験がない人はまったくないという格差が広がっていることそのものも一つの社会問題といってもいいかもしれない。



⑦後編 動物問題を発信するアーティスト・ミュージシャン・作家たち へ






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