ニリュウ 国取り物語
リュウが生まれ故郷の沢枝村を逃げ出したのは、令和102年9月のことである。
リュウはその時18歳、細くしなやかな体に美しい顔を乗せた青年であった。
沢枝村は電気も水道もない、喰うや食わずの寒村である。楽しみと言えば夜の共寝くらいしかないのをいいことに、リュウは15歳の頃より爺から娘っ子まで村人ほぼ全員を次々に籠絡、同衾。それに加えて牛、馬、犬ともねんごろになって、働かずに暮らしていた。
リュウの美貌と口の上手さ、田舎特有のおおらかさのため、村の人々はリュウの放蕩をたいがいは許していたが、動物どもの方はそうはいかなかった。リュウの出奔の原因はつまり、牛と馬とのいさかいに端を発していた。
9月のある日、リュウが牛と小道を歩いていると、昨晩リュウに抱かれた馬と行きちがった。
「ちょっとあんた! リュウさんとベタベタせんでよ!」馬は鼻息荒く言った。
「何それ、ジェラシー? リュウは俺のもんだで?」牛は挑発した。
折悪しく馬は発情期、牛も普段なら馬など歯牙にかけぬが、その時ちょうどリュウに背中を巧みに撫でられて興奮していた。
「何さ!」
「何だよ!」
たちまち牛と馬は二足で立ちあがり殴り合いをはじめた。牛と馬の喧嘩とは珍しいと顎に手を添え見物していたリュウであったが、互いの腹や顔に痣ができコブが腫れてきた段となってこれはまずいと人を呼んだ。
結果、牛も馬も全身ぼろぼろ、数ヶ月は動けぬ体となった。乳も出なければ木も引き倒せぬ。
ただでさえ先のいくさで痩せた土壌、喰うものがろくに生らぬ東北の山の中だ。村人たちは土を喰って乳を出す牛と、かじってしゃぶる木を引き倒す馬のはたらきによってどうにか生活を繋いでいた。
活計のよりどころとなるもの二つが傷ついて、温厚な沢枝村の人々もさすがに怒った。それもこれもリュウの放埒が原因というわけである。
夕刻、村の真ん中にある小さな広場に、村の大人たち40人ばかりがずらりと揃った。幼児を除いた少年たちも見物に来ていた。それに怪我でうんうん苦しみながら横たわる牛と馬、それぞれのつがい、犬3匹。村に生きるものほぼ全てであった。
皆は口々にリュウを問い詰めた。
「秋やと言うのに、こいつらのケガが治るまで仕事が大変だや」
「治っても乳が元通り出るか。ちゃんと歩けるかどうか」
「犬や牛ならともかく、人間とまでデキておったとは」
「そもそもお前、この村ン中で誰がいっとう好きなんじゃ」
「ワシが一番好きじゃと言ってくれリュウ」
「いいや私がナンバーワンじゃ!」
損害に関する話題から話は自然、リュウの色恋についての流れとなった。
俺は遊び人だけど、一番好きなのはお前だよ、と最年長68歳から下は17歳、牛馬犬とちちくり合うたびに囁いてきたリュウであったから、そのツケがとうとう回ってきた形である。
だがリュウは落ちつき払って、村の生き物ほぼ全ての前でこう告げた。
「俺はね、みんなを等しく愛しているよ」
いつもの甘い口調で、ゆっくりと言った。
「その証拠として、今日はここにいるみんなと俺で、満足いくまで、ゆっくりと楽しもう……ね?」
そして首をかしげて、かわいく微笑んだ。
村の衆の歓喜の叫びは、山三つ向こうにまで届いた。
「宴」は夕方から、翌朝の日の出前まで延々と続いた。
最後の一人、村の長の爺様が満足して寝息を立てはじめた明け方、村人と動物たちがあられもない姿で眠りこけている広場の真ん中に、リュウはいた。
体のでかいオヤジの腹に寄りかかって足を投げ出し、ペッタリ座っていた。
ぽつりと、こう言った。
「つかれた」
さすがのリュウであっても、10時間のくんずほぐれつには疲れた様子であった。
眠っている連中の中には、寝言でも「リュウ……」「リュウよ……」と呟く者がいた。
「……こんだけしてもまだ、俺の夢を見とるんか……」
口説く時や夜の営みの時には決して口には出さぬ訛りと共に、リュウはあきれた調子でこう洩らした。
山の陰から朝日が照りつけてきて、リュウの顔と、地べたに眠る村の衆の肌をあらわにした。
村人も牛馬も犬も、ひとつのまとまった肉の塊のようだった。
リュウの口から、ゆるいため息が漏れた。
「イヤになったな……」
そう言って裸のまま立った。大立ち回りのせいか膝と腰を痛めているらしくヨロヨロしていたが、リュウは寝ている村の衆を踏み越えて、自分の家へと足を向けるのだった。
家、と言っても小屋である。布団と机、ロウソク立てやボロ服やらがあるばかりの四畳半だった。
たいした荷物はない。小さなバッグに服をいくつかと、ソバガラの入った枕を突っ込む。
テーブルの上に置いてあったペンダントを手に取り首から下げた。早くに死んだ父母の形見である。
それから引っつかんだボロ服を着て、パンツとゆるめのズボンを履く。古いサンダルに足を入れた。これがリュウのいつものいでたちであった。
彼は振り返りもせずに家を出た。
それから村の各所を回って、いきがけの駄賃とばかりにいくつかの物品をくすねた。
最後に名ばかりの薪小屋から出たその時、リュウの進む先を黒い影がさえぎった。
ギャア、と叫んでリュウは尻餅をついた。夜伽に色事はお手の物だが、その他では滅法弱いのである。
そこには、女がいた。
汚いズダ袋に穴を開けて、手足と顔を出している女だった。
切れ長の目に黒く長い髪、腰に手を当て、リュウの顔を覗きこんでいた。
「よう、何しとる」
女は言った。
「なんだぁ、オリュウかや……」
リュウはほっとしたように呟いた。
女は、名前をリュウと言った。
こちらのリュウと同じ年の一日前に生まれ、偶然に同じ名前がつけられた女だった。
こっちのリュウの家は、村の誰からも嫌われていた。
村外れの川のそばのバラックに住んでいた。父はなく、母親はお産で死に、祖母とふたりでどうにか暮らしていた。その祖母も昨年、老いて死んでいた。
「なんでうちのメンコい息子と、川向こうのおなごが同じ名前なんじゃ」
母親は常日頃そうぼやいていた。
「川向こうの父母はな、先のいくさで街まで出てよ、しつこく抵抗しくさったそうじゃ。恥ずかしいイキモノよ」
父親が一度だけ、こう教えた。
両親は先方に改名をしきりに勧め、あちらは拒否した。とりあえず女の方は「オリュウ」と呼ばれるようになった。が、登記名簿の上では「リュウ」のままである。
「どうしたんじゃ、本なんか持って。なんの本じゃ」
オリュウは口を開いた。
「うん? ちょっとな……」
リュウは言葉を濁す。
リュウとオリュウは子供の頃から、薪小屋に積んである「本」を読んで暇を潰していた。いくさの前に刷られた本で、燃料や食用にとってある。
本来、公用教科書以外の本を読むのは法に触れる。見回りの地域警官に見つかれば大目玉である。しかし両親を早くに亡くしたリュウは村人みんなに甘やかされていたし、彼の隣にいれば、オリュウも叱られなかった。
リュウとオリュウは他の子供がサッカーや家の手伝いをする中、狭く暗い小屋の内で本を楽しんだ。読めぬ字は互いに教え合い、2人とも読めぬ時には顔を見合わせて微笑んだ。
「お前、広場におらんかったな」
リュウが起きて尻をはたきながら聞いた。
「あんなもん参加しても面白くないもん」オリュウは言った。「家で寝とったわ」
「そうか」
リュウはバッグに「本」を突っ込もうとしたが、いっぱいで入らない。仕方なく枕を取り出し、小脇に抱えた。
「もしかして、村、出るんか?」
オリュウが尋ねてもリュウは黙ったままだった。
リュウが小屋を出て村の端っこを歩いていき、オリュウはズダ袋をがさがさ言わせながらついていく。
リュウは村のキワまで来た。低い柵が植わっていた。村の境界であった。
そこで、リュウは振り向いて、村の中を見た。
陽光に照らされた、20軒ほどの小屋や家があった。向こうには枯れ木ばかりの灰色の山があった。
リュウの目が、ほんの少しだけうるんだ。
「なぁ。村、出るんか?」
オリュウはもう一度聞いた。
「……うん」
リュウは鼻をすすってから答えた。
「やっぱりな。ほじゃったら、私もついていくわ」
「えっ」
「ほら、準備してきたもん」
オリュウはそう言って、ズダ袋の服の中から風呂敷包みを出した。
「お婆様のお墓にも手ぇを合わしてきたから、ここにゃなんの未練もない」
リュウの顔がぱっと明るくなった。
「そうかぁ、俺と一緒に行くんか」
それからオリュウの両肩を掴んだ。
「じゃあここで、俺と一回」
オリュウの拳がゴスッ、とリュウの脇腹に軽くめり込んだ。
「バカタレ。ついていくだけじゃ」
「旅立ちの記念に……」
「もっと殴られたいか?」
オリュウの目に殺意が宿ったので、リュウは黙った。これ以上食い下がると本格的に暴行されることを、身をもって知っていたからである。
幼馴染ではあったが、なぜかオリュウはリュウに一度として、体のどこの部分も許していない。
そのかわりにオリュウはリュウの放蕩三昧、それによってまれに起こる騒動をいつも欠かさず観察していた。
一度リュウが「君はどうして、ずっと見てるだけなんだい?」と尋ねてみると、「あんたを見とる方が面白いもん」と答えて、オリュウは少し笑った。
低い柵を、2人同時にあっさりと乗り越えた。
朝の匂いが漂っていた。
2人は、歩き出した。
「そういや、どこへ行くつもりなん」
山道をしばらく行ってから、真横にいるリュウに向かって、オリュウは聞いた。
「この際じゃからな」リュウは腕を上げてまっすぐ前を指さした。「東京に行こうと思っとる」
ふうん、オリュウは鼻で返事をした。
「遠いで。それに東京に行ってどうするん」
「このツラと」
ぺしん、と頬を叩く。
「この喋りで」
唇の端を指で引っ張る。
「天下を獲る」
「……なぁリュウよ、気ィつけや。都会は村みてぇにのんびりしとらんで。先の大戦のあと堅牢で非人道的な社会体制が」
「アーアーわかったわかった」
まつりごとの話となると、オリュウは祖母に仕込まれた思想を滔々と語るクセがあった。
「そういうことは東京に近づいてからじゃ。まずは無事に山を越えられるか、よ。都落ちの賊も潜んでおるかもしれんしな」
「それは私がなんとかするわ」
「なんとかってお前……」
リュウは苦笑しながら隣の女を見た。途端に顔がさっ、と青ざめた。
オリュウは風呂敷の中から、平たい白木の筒を出して、抜いていた。
刃物であった。
「これ、『ドス』って言うんやて。お父様のお父様の、そのまたお父様の代からのシロモノで」
「お、お前、はよ隠せ。そんなに長い刃物は御法度じゃぞ」
「バカタレ。誰もおりゃあせん。それにこれは万が一の時だけじゃ。基本は体術で殺す」
「こ、殺す」リュウの白かった顔が今度は紅潮した。「殺すのは、ちょっと」
「賊でも出ん限りドスも体術も使わん。それよりお前、サンダルで遠い遠い東京まで歩けるんか?」
ちゃきり、とドスをしまってから、オリュウはリュウの顔面をにらんだ。
「変事があれば助けるが、歩けんからと背負ってやったりはせんからな?」
しかしながら、リュウとオリュウは一つ目の山の向こう側まで行って、そこで東京行きをとりやめることになる。
あるものと遭遇したせいである。
賊や野生動物ではない。「ご専主様」のひとりと、出くわしたのだ。
ふたりは山道から国道に出た。いくさの後でも田舎の国道は半ば残っていた。枯れ木を横目に見ながら、固い道路を登っていった。
リュウはすぐに足が遅れ、次第に愚痴りはじめた。
下りに入った頃にはさらに、
「お前は寝てたもんな」「元気いっぱいじゃ」「坂道も楽じゃろう」などと言いはじめた。
先を行っていたオリュウが立ち止まって、振り向いた。
風呂敷を地面に落として腕を組み、ズダ袋から伸びた軍用ブーツの爪先を路面にゴンゴンとぶつける。
オリュウの目が殺しの目になっているのに気づいて、リュウは視線をそらした。
その時だった。
「──ちょっと待て」
リュウが手の平を向けた。
「なんよ?」
「なんか来る……向こうから」
リュウが坂の下、国道の先に顎をしゃくった。
道の先から、ふたりが見たことのないモノが走ってきた。
それは人ひとりが入っていそうな大きさで、少し浮いていた。
丸く、平たく潰れていた。色は真っ白であった。
「えっ、なに?」リュウはオリュウのそばまで駆けて背中に隠れた。
「山の生きモンではないな」
オリュウの全身がこわばった。
風が渡るような音を立てて、それはふたりのそばを通りすぎた。
と思ったら、少し先で変な音と共に停まった。
「えっ、やだ」リュウはオリュウの肩を掴み、盾のようにして反転した。「怖いんじゃけど」
オリュウは黙っていた。地面の風呂敷に手を伸ばしたが、「今は下手に動かん方が」とリュウが止めた。
ニョン、とこれまた変な音を立てて、白く平たいモノの脇腹が引き戸のように開いた。
そこから出てきた姿を見て、リュウは「ヒェッ」と身を縮ませた。
走ってきた真っ白なモノと同じくらい、真っ白な体の生物であった。
巨大な頭から、白く細長いものが生えている。脇から4本、手であるらしい。下から2本、これは足。どれにも指はなく、先はつるりとまんまるかった。
顔には目のような黒い穴がふたつと、口らしき赤い穴がひとつ、それきりである。頭に、冬場につける耳当てのようなものを当てていた。
「あわ、わ、わ」リュウは泡を喰ってオリュウの陰に完全に隠れ、かすかな声で呟いた。
「ご専主様……」
間違いなく、「ご専主様」のひとりである。
幼いリュウが毎日教科書で見て、オリュウも姿形は知っていた。学校の壁にも御聖画が飾ってある。だが直接に見るのは、これがはじめてであった。
乗り物から降りた「ご専主様」は、ふたりの方を向いた。それから口らしき穴から、キンキンした声でこう言った。
「コンニチハ」
「喋った!」
リュウは逃げようとしたが、オリュウに首根っこをつかまれた。
オリュウは探るような口調で、挨拶を返す。
「……こんにちは」
「スイマセン、チョット、マッテネ」
ご専主様は丸くて細長い手の一本で耳当てに触った。
「……聞こえますか?」
少しだけ角ばった声が響いた。
「……はい、聞こえます」
オリュウは静かに答える。
「喋っとる。うう。喋っとる」
リュウはオリュウの背にしがみついて唇を噛んでいた。
この国の支配者層──と同種の生き物──がはじめて目の前に現れ、日本語でこちらに話しかけている。この未知の事態に怯えきっていたのである。
「すいません、驚かせてしまったようで」
機械を通したご専主様の言葉はきれぎれに続いた。
「いいえ、大丈夫です」
「私は、山で暮らすヒトの、文化や生活の、研究をしております」
「私らについて、勉強をしとるということですか?」
「そうです、勉強です。私は、ブイレと言います。ちょっと、お話をよろしいですか?」
教科書にあるご専主様の偉そうなイメージとは違って、礼儀正しく腰が低い。だが、
「お、俺らをさらって……バラバラにするつもりじゃ……」
リュウがオリュウの耳元で囁く。
「ほれ……本に書いてあったじゃろ……あのユウフォーに乗せて、俺らの血を全部抜いて……四角いのを埋め込んで脳ミソをいじって」
「やかましいッ」
オリュウはリュウの頭をはたいた。
「あっ、暴力はいけません。暴力はよくないです」
ブイレが驚いて、白い腕をワタワタと動かした。
「そうじゃ、人を殴るのはいかん……」リュウは頭をさすりながら言った。オリュウは奥歯を噛みしめた。
それから、ブイレによる質問がはじまった。
どこに住んでいるのか。何を食べているのか。家族は。毎日どのような生活を送っているのか。
前に立つオリュウがほぼ全てに答えた。背中で震えるリュウは「ハイ」「イイエ」くらいしか言わなかった。
オリュウは、教えても差し支えないことは正直に、まずそうなことは嘘八百で、虚実を織り混ぜて答えた。たとえば「沢枝村から」と言う代わりに「川田村のもんです」などと。
ブイレは頭の機械に手を当てつつ、なるほど、そうなんですね、と丁寧に相槌を打つ。
どうやら人さらいではなさそうだ、と二人が安堵しはじめた頃だった。
だしぬけに、こんなことを頼まれた。
「お二人は、人間の男性と女性ということで、それで是非、お願いしたいことがありまして」
ブイレは二本の細く白い手を擦り合わせた。
「キッス、というものをしていただきたいんですよ」
「は?」
オリュウの思考が止まった。
「我々にはそういう文化がありません。資料などで見るだけで、すぐ目の前で、人間のキッスというものを見たことがないもので」
「はい! わかりました!」
リュウが荷物を捨てて絶叫し、オリュウの前に回り込んだ。肩を掴んで唇を尖らせた。
オリュウは反射的に、相手の顎の真下に拳をぶち込んだ。脳ミソが揺れてリュウはくずおれた。
それから路上に落ちていたリュウの枕をひっ掴んで、ブイレの顔に向かってぶん投げた。
「私はそんな安いもんやないわ! ボケ!」
古い枕は相手の白い顔にぶつかった途端に破れた。無数のソバガラがブイレの顔面にひっついた。
「わっ、なに、この……」
顔を4本の手ではたいているうちに機械が頭から外れた。キンキンする元の声が山の道に響いた。
「コラァ! 逃げるぞ!!」
オリュウはリュウの手を引いたが、あっ、と叫んだ。
リュウは白眼を剥いて、完全に失神していたのである。
「ええぃ面倒な!」
瞬時にリュウの体をしょいこみ、風呂敷にバッグを持って一目散、オリュウは今来た道をすごい速さで駆けていった。
しばらく走ってから、オリュウは道を外れて横へ、枯れ木の森の中へと入った。
まずいことになった、そう考えた。
どういう立場の者かは知らぬが、ご専主様に汚い枕をぶっつけたのである。反逆罪だ。捕まれば運が良くて死刑、運が悪ければ生きたまま実験の材料にされる──と、祖母が言っていた。
名は出していないから沢枝村は無事だろう。あそこには未練も愛着もないが、住んでいる子供たちに罪はない。自分たちは顔を見られた。だからこそ、村には戻れぬ。
枯れ木の隙間を縫うように駆けていく間じゅう、オリュウの頭の中にはひとつの言葉が鎮座していた。
これから、どうする。
額や背中に汗が流れた。
しばらく道なき道を進んでいると、リュウがウゥン、と声を上げた。
オリュウは足を止めた。振り返る。さっきの白い奴は、追ってこなかった。
「起きたか」オリュウは背中の者を下ろしながら言った。
灰色の木立を見回していたリュウが、ハッと身を震わせた。
「オリュウお前まさか」
「殺しとりゃせん。枕をぶつけただけじゃ」
「俺の枕……」リュウは悶えた。「あれがないとよう眠れんのに」
「そんなことぁどうでもいい。問題はこれからじゃ」
オリュウは木陰に座り、さっき考えたことをリュウに話した。
「ということは、東京へも行けんことになるなぁ」
リュウは頭の後に手を回した。
「ご専主様が大勢おる東京に出向いたら、すぐ捕まってしまうじゃろう」
「……すまん、ついカッとなってしもうて」
「いやしかし、俺も東京へは行きたくないと思ってたところじゃ」
オリュウは顔を上げた。「どうしてじゃ」
「俺ならご専主様も堕とせるとタカを括ってたが、実際見ると気味悪い。あの白いウネウネ……。ああいうんが東京に大勢いるとなると、のぅ」
「……リュウよ。村へも東京へも行かれんのやったら、どうする」
問われてリュウは、そうさなぁ、と空を眺めた。
それから立ち上がって、木の向こうの山々を透かして見た。
空は広く、山も数多くそびえている。
「日本は、広いな」
リュウは呟いた。
その声は、オリュウには聞こえなかった。
「この山々にも、小さな村が点在しとろうが。まずそこに行こう。そこを、俺らのもんにする」
「──なに?」
「俺が村人を虜にしたる。この色香でな。ひとつ手に入れたら、またひとつ。もうひとつ……」
リュウは指を折っていく。
その瞳に得体の知れぬ色合いが渦巻いていく。
「俺が下手をこいて騒動になったら、お前の出番じゃ。強さを見せつければ、お前も畏れられるようになる」
リュウのこんな目つきを、オリュウは見たことがなかった。
天下を獲る──さっきの言葉は戯言ではなかったのか。
「都会でイチから成り上がるよりも、そっちの方がいいじゃないか。そうだろう?」
いきなり冷たい標準語が突き出されて、オリュウの身がすくんだ。
リュウはゆっくりと振り向いた。
「東京に行けぬなら、東京を作る。ご専主様から離れた場所で、大きな村を作って、それで天下を狙う」
オリュウの目を正面から見据えた。
オリュウの胸に痺れが走った。色恋の痺れではない。野望に、胸が震えたのである。
リュウは押し出すように、こう尋ねた。
「オリュウ。俺を手伝ってくれるか?」
こいつは本当に、人を堕とすのが巧みじゃ。
オリュウはそう思った。
「乗った」
オリュウは手を出した。
リュウはそれを握った。
「だがな、男と女の関係にはならんぞ」
オリュウが付け足した。
「……もちろん! わかっとるよ!」
リュウは間を開けて返事をした。
【二龍村 元年】
山をふたつばかり越えたところに、ごく小さな村があった。まずここに狙いを定めた。沢枝村に似た貧しい雰囲気がある。
村の通りでは裸の子供が歩き、ジャージ姿の女がタライで腹立ちまぎれのようにせかせかと洗い物をしていた。
ふたりで顔を見合わせると、オリュウが頷いた。リュウは前髪を少し整えてから、バッグを体の前に下げて女に近づいた。
「あのう、すいません。よろしいですか」
「何ね? あんた……」
洗濯物から目を移した女の表情から苛立ちが消えて、視線がリュウの顔に吸いついた。
「僕、道に迷ってしまいまして」
「……は。そうですか。それは、大変でしょう」
女は立って手を服の前で拭き、ほつれ髪を上げる。母親の顔から女の顔になっていた。
「このあたりの地理に詳しい方はおいでですか?」
「それでしたら、奥の家の婆様が」
「ああ、よかった!」
リュウのよく澄んだ声音が村に通った。
「お嬢さん、その方の家まで、一緒に行っていただけますか?」
「はっ、はいッ」
お嬢さんと呼ばれた女は服の裾を掴んだ。
「ありがとうございます。あ、この後ろのは、僕の妹です」
促されたのでオリュウは前に進み出て、「妹です」とだけ言った。
女が先に歩いて、ふたりを誘導した。やけにちらちらと振り返り、リュウの顔を見る。
「お嬢さんは、お名前はなんと?」リュウが尋ねると、
「サトコです」と答えた。
「サトコさん」リュウはゆっくりと、名前を繰り返した。「サトコさん、ですね」
「はい……」女の横顔の頬には、赤みが差していた。
おそろしい手さばきじゃ。オリュウは思った。
土地勘があるという婆様の家が近づくと、怒鳴り声が聞こえはじめた。老婆と男の言い争いである。土地がどうとか、広さがどうとか言っている。
「すんません、婆様がまた揉めとるようで」
女はリュウの顔を熱っぽく見つめながら謝った。
「いいえ、大丈夫ですよ」リュウは女に一歩近づいて小首をかしげた。女の目がうるんだ。おおかた、かわいく微笑んでおるんやろうな、とオリュウは想像した。
「ところで、どんなことで揉めていらっしゃるんですか?」
「詳しくは知らんのですが、東京のジツギョウカの人らしゅうて」
女は視線を外さず、服の裾を悶々と揉みながら答えた。
「ここいらに東京向けの、コウジョウを作りたいそうなんですわ」
リュウは無言で振り返った。オリュウと目が合った。
ふたりはニヤリと笑った。子供の頃のそれとは比べ物にならぬ、悪い笑顔であった。
【つづく】
●本作は『ニンジャスレイヤー』などで有名な創作・翻訳チーム、ダイハードテイルズが主催する「 #逆噴射小説ワークショップ 」応募作です●