見出し画像

原発事故が奪ったふるさとを返せ

訴え続ける福島県津島の人々


 4月後半、福島県双葉郡浪江町津島地区では、ようやく新緑が映え始めていた。しかし、2011年3月、東京電力(東電)・福島第一原子力発電所で起きた事故以来、春の到来を喜ぶはずの住民は1人として戻ることができていない。それどころか、ふるさとは「帰還困難区域」と呼ばれている。
 「この先帰還困難区域につき通行止め」と書かれた立て看板の後方にあるバリケードフェンスがゆっくりと開けられ、この地域の区長であった今野秀則は自宅がある中心部に車を進める。
「ここにあった家は取り壊されました。」
 車をいったん停止させ、今野は右手の更地を指し、そう説明する。
「そこにも大きな家があったけど、取り壊されました」と今度は左手の方向に目をやる。
 原発事故から11年が経ち、家族が長く生活をともにした家が消されていく。住民が築いてきた地域社会の風景が消されていく。
 
■いまだに「帰還困難区域」
 2018年から始まった5年計画の「復興拠点整備事業」のもと、津島地区の中心部では家屋の解体や除染が進み、130世帯のうち、およそ100世帯がすでに取り壊されたという。
 そして、今野自身、代々営んできた松本屋旅館を解体すべきかどうかという選択を迫られている。彼は4代目だが、自分の代で受け継がれてきた旅館を壊していいのか、あるいは、津島の今後の見通しがまったくつかないなか、地域の象徴的な場所である旅館を維持し続けるのか、悩んでいる。
 この整備事業は、津島地区の「復興拠点」と呼んではいるものの、その対象は、地区のわずか1.6パーセントだ。しかも、残りの98.4パーセントに関しては、政府から何の説明もないという。
「何の計画も示されていませんし、将来像もありません。住民は放り出されっぱなしです」と今野は語気を強める。
 政府とメディアによる「避難指示解除」の宣伝が繰り返されていたため、原発事故で最も被害を受けた地域の復興があたかも進んでいるようなイメージが世間に広がっているが、東京の山手線内側のおよそ1.5倍もある津島地区(旧津島村)がいまだに「帰還困難区域」であることはほとんど知らされていない。放射能の汚染がより深刻だと思われる山林の中に入っていかなくても、「復興拠点」外の地域では空間線量が毎時4マイクロシーベルトを超えた。(注1)
 また、11年間も手つかずのため、家がひどく傷んでいたり、イノシシ、ハクビシン、テンなどの野生動物が侵入して、荒されていたり、なかには、草が伸び放題で入り口にたどり着くことさえ困難な家や、森に飲み込まれそうな家もある。
 津島の住民は、そのような自分たちの家にいつ戻ることができ、原発事故前と同じような生活を再開できるのか、いつ、再び湧き水や井戸水を飲み、キノコやさまざまな山菜を採り、請戸川で魚を釣って食べることができるのか。国からも福島県からも、今後の彼らの生活がどうなるのか、何の説明も受けていないという。事故から11年以上経っても、自宅に一時的に戻ることも墓参りをすることも、立ち入り許可なしにはできないのが現状だ。


浪江町津島 「帰還困難区域」内 三瓶宅 2021年1月撮影 

■人々が結びついた豊かな生活が
 原発事故前には、およそ450世帯、1400人が阿武隈高地の津島地区で暮らしていた。この地区は、旧満州や朝鮮から引き揚げた人々を比較的多く受け入れた地域としても知られている。
 浪江町の中心地から約30キロメートルも離れているせいもあり、同じ町のなかでも津島はその「独自性」が豊かな地域だという。また、地域の人々が緊密に結びついていて、「喜び、生きがいを感じて生活できる場所だった」と今野はふり返る。
 原発に近い浪江町の沿岸部のほとんどの地域は2017年3月に避難指示が解除されているが、5年以上経っても、実際に町内に居住している人の数は、他の地域から移住してきた原発廃炉の作業員も含めて約1600人で、住民登録されている16400人の10パーセントを下回る。原発事故当時の町の人口は21500人だった。
 2011年3月11日に原発事故が起きると、浪江町の沿岸部から津島に1万人近い人々が避難してきて、地域の集会所、小中学校や体育館などを埋め尽くし、足の踏み場もないくらい混雑していたという。また、ふだんは静かだった通りも人であふれ、子どもたちも外で遊び回っていた。
 津島の住民は、避難してきた人々の対応に忙しく、炊き出しをおこなって、食事を提供したり、臨時のトイレを設置したりしていた。
 同じ頃、白い防護服とマスクで身を固めた数人のグループが地域内で目撃されている。というのも、住民が後に知ることだが、事故で発生した放射性物質が北西の風に乗り、山林がおよそ80パーセントを占める津島にも大量に降り注いでいた。
「だから高線量だったんです。でも、放射能に関して、国、県、あるいは東電からの連絡は一切ありませんでした」と今野はふり返る。
 3月14日午前11時に原発3号機の原子炉建屋で水素爆発が起きると、それまでの津島の雰囲気が一変した。
「原発が爆発した状況などがテレビで報道されていて、そういう状況を見ればさすがにもうここにはとどまれない。避難しようということになりました」と今野は当時を思い返す。
 3号機の爆発や避難に関しても、国や福島県からの連絡や指示はいっさいなかったという。津島地区の避難は浪江町独自の判断だった。当時、政府は原発から20キロメートル圏内に避難指示を出していたので、原発から約30キロメートルに位置する津島は、はるかその圏外であった。しかし、当時の政府のこの判断が致命的なミスだったことは、津島が現在、帰還困難区域に指定されている事実からも容易に理解できる。
 当時、多くの住民は、避難は一時的なもので、長くても1週間ほどで戻ってくることができるだろうという希望を持っていたという。11年以上経っても戻ることができないとか、いつ戻れるかわからない現在の状況など、ほとんど誰も予想していなかったことだろう。
 
■転居を繰り返す避難生活
 原発事故から数カ月後、政府が放射線の空間線量の調査結果を公表すると、津島の人々は自分たちの地域が、線量が極めて高い真っ赤で示されていることを知る。つまり、津島は最も汚染された地域の1つであった。
 国は、放射能から子どもや妊婦を含めた住民や避難者を守る気がなかったのだと津島地区住民の1人である三瓶春江は言う。
「それはあまりにもひどすぎませんか?私たちは同じ国民として扱われているのですか?防護服とマスクを付けた人がいたということは、国はわかっていたわけですよね」と三瓶は問う。「国は私たち住民や避難者を見放したのです」と続けた。
 当時、4世代10人が一緒に暮らしていた三瓶の家族は東京まで避難した。しかし、10人が一緒に避難できる場所が見つからず、一家は最大6カ所に分かれて避難生活を送った。原発事故から5年後、福島市内に10人がともに生活できる家をやっと見つけることができた。三瓶自身は計7回、避難場所が変わったという。
 今野は原発事故が起きてから8カ月間のうちに避難先を4回ほど変えていた。2011年11月、4カ所目の転居場所である県内の本宮市に移った。しばらくすると、近所の人々がごちそうをたくさん作って、彼と妻のために歓迎会を開いてくれたという。また、松本屋旅館の客だった人らも見舞いに訪れたりもした。
「ほんとうに嬉しかったですね」と今野は当時を思い返して言う。
 現在、今野は5カ所目の転居の場所として同じく県内の大玉村で暮らしていて、当時の客からは今でも連絡が来るという。
 今野のように、5回から6回の避難、転居をした人は少なくない。なかには、合計10回ほど場所を転々とした人もいる。そのような転居の繰り返し、それにともなう環境の変化のためか、体調を崩してしまう人もでてくる。
 
■差別、かさむ出費、お墓の問題
 原発事故でふるさとを追われ、避難生活を強いられているうえに、避難者は、偏見や無知、差別にも遭遇する。「被爆がうつる」とか「放射能を持ってくるな」などという言葉を浴びせられた人もいれば、また、「賠償金をたくさんもらっているのだろう」などと言われることもあるという。
 賠償金どころか、誰も予想できなかった避難生活の長期化と度重なる転居で出費はかさむ。とくに、家族が別々に暮らすようになると、その分、生活費は増える。三瓶の家族などは山の水で暮らしていたため、「水道料金」は今まで支払ったことがなく、エアコンも使ったことがなかったため、現在の光熱費は以前の倍以上になっているという。
 津島の住民にとって、お墓の問題も頭を悩ます。自分たちは避難しているため、先祖を津島の墓に置き去りにしたままでいいのかと今野は自問する。その一方、ふるさと津島ではなく、避難先の墓地に納骨することに抵抗がある人もいる。
 今野によると、原発事故以降、約200名の津島の住民が亡くなった。津島の長安寺は避難先である福島市内に「別院」を開き、そこに100柱以上の遺骨が安置されたままとなっている。なかには、自宅で保管している人もいるという。
 津島では、お盆や彼岸の前にはお墓をきれいにすることを習慣にしていたし、結婚や新築などの節目節目では、先祖に報告に行き、また、納骨の際は家族そろって弔っていた。しかし、現在は、墓参りするにも立ち入り許可が必要で、また、高線量のため、15歳以下は入ることができない。
 墓を津島から移動する住民もいるが、宗派が異なると受け入れてくれず、同じ宗派か、あるいは無宗派、共同墓地を探さなくてはいけないという。
「賠償だけではすまないことがたくさんあります」と今野は言う。
 
■津島原発訴訟の地裁判決
 昨年七月、世間の関心が東京オリンピックにすっかり向いていた頃、「ふるさと返せ 津島原発訴訟」の判決があった。
 2015年に住民が原告団を発足、裁判を通して、原発事故で受けたさまざまな被害を訴えていく必要性を確認した。また、この問題は津島だけの問題ではなく、原発が存在するかぎり、今後も彼らのような被害者が出てくる可能性があると考えた。
 訴訟を提起してから約6年後の7月30日、福島地方裁判所郡山支部は国と東電の責任を認め、住民650人に総額およそ10億円の支払いを命じた。しかし、原状回復の請求は却下された。
「私たちはやっぱり引き下がれません。故郷が奪われたまま、それでいいのか?そうではない」と判決後の集会では、原告団の団長である今野はそんな言葉を絞り出した。
 原発事故以降、子どもたちに健康被害が出るのではないかという懸念をいだいて生活をしてきたと三瓶は強調する。
「私たちは、子どもたちを守ることができるのは自分たち大人だ、ということを強く考えていて、子どもたちの将来の健康に対しての担保はされるべき」だと三瓶は主張、「大事な宝である子どもたちのために、いま、国や東電と闘っています」と続けた。
 また、「放射能で汚されたまま」の津島を元に戻すような努力をしてもらいたいということで地区全域の除染をお願いしていると彼女は言う。(注二)
 戦時中、三瓶の両親は旧満州に渡った。戦後、父はシベリアに抑留され、母は密航船で戻ってきた。父もその数年後に帰国し、その後、家族で津島に入植した。満州や朝鮮から引き揚げてきた、父のような戦争経験者が鍬を振り上げ、荒れた土地を耕し田畑にして、生活の基盤を築いたのだという。
この訴訟では、原告と被告の双方が控訴しており、今後は仙台高等裁判所で争われる。
 福島県内のメディアはこの判決を大きく報道していたが、オリンピックのスポンサーとなっている大手新聞社での報道は控えめなものだった。
 
■「誰も責任をとらない」
 原発事故10周年が過ぎ、その被害者に関する報道が激減する一方、事故の真実を知りたい、現状を知りたいという人は増えていると三瓶は言う。
 三瓶がある大学の教授とその学生らを彼女の津島の自宅に案内したことがある。自宅内部の惨状を目の当たりにすると、彼らは想像以上の様子に言葉を失い、なかには、涙が止まらなかった学生もいたという。
 今年4月3日、東京で「福島・『津島』はなぜ闘うのか」という3名のジャーナリスト(土井敏邦、森住卓、野田雅也)による報告会(土井敏邦パレスチナ・記録の会が主催)が行われ、今野をはじめとする津島の住民も参加していた。
 「浪江町津島―風下の村の人びと」(新日本出版社)の著者でもある森住は津島の人々が強調する「お金じゃないのよ」と「このまま黙っていたらなかったことにされてしまう」という二つの言葉が彼の心に響いてきたという。
 イラクやカザフスタンなど海外でも放射能汚染問題を取材してきた森住は、津島の人々が直面している問題は、実は、戦後の日本全体の問題でもあると報告会で強調した。
 戦後、昭和天皇の戦争責任はタブー視され、その責任を取らずに亡くなってしまったと森住は言う。
「そういうあいまいさをずっと残して原発事故に至ったわけですね。そして、(原発事故も)誰も責任を取らない。この問題に真っ正面から津島の人たちは挑んでいる。これは単に津島の問題ではなくて、日本社会全体の世直しをしているのだというふうに私はいつも思っているのです」
 
■いまもふるさとは奪われたまま
 今野は「なぜ闘うのか」の問いに関して、報告会で次のように説明した。
「まさにそこに私たちの人生があり、存在の根拠があり、積み重ねてきた歴史があり、その歴史を踏まえて現在があり、それをさらに将来の世代につなげていくという営みがあった」からだという。
 また、津島では、筆者に次のように語った。
「私たちはふるさとを返せと裁判では闘ってますけど、ふるさとって、単なる場所ではないんですね。その場所とともにそこで暮らす人々の生活そのものなのです。ふるさとが奪われたままで、私たちが避難したままで、放置されたままでいいかというと、やはり、それは容認できません」
「日常生活で自然とのつながりを感じることができる住民らが一体となった地域社会が何よりも大事で、それがないと人は生きていけないはずです」と今野は言う。
 三瓶は、日本は原発があるかぎり、津島地区以外も帰還困難区域になってしまう危険性があるということを考えてもらいたいと話す。
「原発事故とは、事故が起きたら、徹底した除染なしに、もうそこには帰れないって判断をしなくてはいけないことです。津島がそうですよね」
 
 東京電力から津島の住民に対して謝罪がないこと、現状を把握するために津島を訪れていないこと、津島の今後に関しての説明がないことに関して、東京電力に聞いた。以下がその回答だ。
「当社原子力発電所の事故により、福島県民の皆さまをはじめ、広く社会の皆さまに大変なご迷惑とご心配をおかけしていることについて、改めて、心からお詫び申し上げます。お問い合わせいただいた訴訟については、現在控訴審にて審理されております。訴訟に関する事項については回答を差し控えさせていただきますが、当社と致しましては、引き続き、訴訟手続に則り適切に対応してまいります。」
 
(敬称略)
(注)この記事は、解放出版社の月刊誌「部落解放」7月号に掲載された記事に少し加筆したものです。9月1日、「特定復興再生拠点」の立入の規制緩和が行われました。
 
 
(注一)― 同日同じ時間帯で東京都新宿区の放射線量はおよそ100分の1の毎時0.04マイクロシーベルトだった。
 
(注二)― 原告は津島地区全域における放射線量を毎時0.23マイクロシーベルトまで低下させることを求めている。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?