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1.7 統一教会は「マインド・コントロール」を用いているのか

ここまで読んでこられた読者の皆様には、統一教会が用いている手法が「マインド・コントロール」であるということは、今さら説明するまでもない”自明のこと”かと思います。

また、その具体的事例と手法については、第3章、第4章で詳しく述べる予定ですが、先に本章の主旨である「統一教会を社会的に位置づける」という観点から、本項目の問いを設定しました。

主に、信者や一部の元信者や、保守系論客の擁護者の中に、「統一教会はマインド・コントロールを用いていない」ということを主張する人たちがいます。
教団もおそらく「マインド・コントロールなどしていない」と否定するでしょう。

少なくとも、教団も信者も、「マインド・コントロール」を自覚していない、という事実があります。

本項目では、統一教会が用いている手法が「マインド・コントロール」であることの自明性と、教団や信者の”自覚”との乖離について説明し、統一教会の手法を社会的に位置付けます。


統一教会が「マインド・コントロール」を用いている自明性

前項目1.6マインド・コントロールとはなにか では、本書で再三引用しているスティーヴン・ハッサン『マインド・コントロールの恐怖』が、筆者の統一教会入信・脱会経験を元に書かれたものであり、「マインド・コントロール」という概念が世に出た最初の本であることを述べました。

つまり、スティーヴン・ハッサンは、統一教会の信者に対する特殊な教化・管理手法を「マインド・コントロール」と呼ぼう、と言い始めたということです。

よって、本項目のテーマである、

「統一教会はマインド・コントロールを用いているのか」

という問いは、改めて「マインド・コントロール」という語の由来を共有した今となっては、なんとも間抜けな問いかけのように思えるかもしれません。

答えは当たり前に「Yes」です。

1.5 統一教会はカルト(なのか)で説明したとおり、

統一教会はカルトの元祖であり、マインド・コントロール手法と呼ばれる手法で信者を支配する先駆者的存在である。

「マインド・コントロール」という概念が登場したその歴史的経緯をふまえれば、そのように断言するのが正しいのです。

例えば、

マイルス・デイヴィスは、モダンジャズの元祖であり、モード奏法の先駆者である。

言い方の構造としては、これとほぼ同じです。

あまり知識がなく、深くも考えていない人が「統一教会がマインド・コントロールしてるかどうかはハッキリいえないじゃないか」などと言うことに対しては、この答えで十分でしょう。

統一教会は「マインド・コントロール」を”どこまで”自覚しているのか

統一教会が「マインド・コントロール」を用いている、ということは、上述の自明性の説明とともに、ほぼ社会的合意の取れることではないかと思います。

次に出てくるのは、彼らはそれを「どれくらい自覚して用いているのか」という問い
ではないでしょうか。

もちろん、「マインド・コントロール」というものはその性質上、それを受ける者が非自覚的であるということは自明です。

「操られている」ということを自覚しているのであれば、「操られている」とはいえません。

さらに、統一教会のようなカルト教団の場合、信者を再生産する「伝道」という勧誘活動を日常的に行なう以上、「”操られる者”が同時に”操る者”に転化する」ということがひっきりなしに起きています。

ただ、「操る者」もマインド・コントロールを受けており、「操る行為」も「操られて行なっている」わけですから、「操っていること」に対しても非自覚的です。

ですから、統一教会の信者が「マインド・コントロールなどしていない!」と主張するとき、
「自分は操られていない」ということと同時に、「自分は操ってもいない」ということをも言っている、ということになります。

さて、統一教会では、報道等で漏れ伝わるとおり、信者一人ひとりに「*アベル」といわれる生活上の上司がつけられ、徹底的に生活管理がなされます。

(統一教会の特殊用語には「*」をつけます)

すべての信者に「*アベル」がついていますから、統一教会の上から下まで、「管理し、管理される」、いわゆる”中間管理職”がウジャウジャいるということになります。

問題は、「管理し、管理される」、すなわちマインド・コントロールを受けながらマインド・コントロールを(下の立場に)用いる信者が、いったいどこからどこまでの範囲なのか、ということでしょう。

統一教会の実態をよく知る紀藤弁護士は、「日本教会長以下、日本人信者は全員”末端”」ということをしばしば発言しています。

「田中教会長もマインド・コントロールを受けている被害者である」等々。

では、韓国の幹部はどうか。
韓国の幹部も、全て伝道されたか、2世・3世信者なわけですから、「*霊の親(伝道した人のこと)」がおり、「*アベル」が設定されています。

そのピラミッド構造を遡った先に、韓鶴子総裁(マザームーン)がおり、教祖である文鮮明がいる。

はたして、文鮮明は、「マインド・コントロール」を用いることに自覚的であったかどうか。

次の問いはこれになります。

教祖は「洗脳手法」を参照したのか

文鮮明や草創期の統一教会がKCIAと関連があるということは、しばしば言われることですが、陰謀論ではありません。
米国のドナルド・フレイザー下院議員が1978年に提出した「フレイザー・リポート」の中にそのことが詳述されています。
その関係は、1950年代後半にまで遡ることができる、と。

CIAは周知の通り、諜報機関ですから、中国共産党などの「洗脳手法」については一定の知見を持っていたものと思われます。

このことを指して、文鮮明がKCIAに洗脳手法を学び、自身の教団に展開したということがまことしやかな推測として語られることがあります。

実際にどうであるのか、確かめる術はありません。

現在のカルト教団に、洗脳手法の根幹をなすとされる、催眠や集団との相互作用における個人の意思決定の仕組み等、心理療法や社会心理学的といわれる手法を応用したものが見られる、という事実はあります。

前項目で紹介した宗教学者の大田俊寛氏などは、これを指して社会心理学的手法がカルトにその手法を”伝え”、社会心理学がカルトの中にその手法を見出すということは、ある種のマッチポンプである、と社会心理学を批判するのですが…

私は、(宗教)カルトが社会心理学の手法を熱心に参照し、取り入れるということは、多少はあるかもわからないが、可能性は薄いのではないか、と見ています。
(積極的なのは心理療法・教育カルトや商業カルトであると思われます。)

というのも、カルトの中でも特に宗教カルトは、どの教団も、自分たちの真理が絶対という独善的な考え方に凝り固まっており、科学的手法ならばともかく、文系学問の知見を積極的に参照して取り入れるという動機に乏しいからです。

文系学問の知は、前項目でも述べたとおり、「〇〇(という賢人)が◇◇を提唱した」という事実の蓄積の体系であり、構造的に宗教と似たある種の独善性を帯びがちです。

つまり、特に宗教カルトから見ると、文系学問の知識体系は、既存社会の中の(多少失礼な言い方になりますが)”プチ教祖”が「自分の言うことが正しい」としながら述べたことの集積であり、競合または敵対関係にあるものです。
宗教カルトは、既存社会(世俗)の価値観や成り立ちを否定する、という根本的姿勢を持っていますから、積極的に世俗の知見を取り入れようと熱心に学ぶとは考えにくいですし、ましてや世俗の”プチ教祖”のいうことを参照するとも思えません。

それは、主に幹部も含めた信者全般の姿勢ですが、開祖、教祖となると話はちょっと別ではないか、という指摘はあろうかと思います。

たいていの新興宗教の教祖は、もともとなにかの新興宗教の信者であり、幹部に上り詰めた先に、所属する教団の教義に飽き足らず、”分派”をして自分の教団を立ち上げる、というプロセスを踏みます。

文鮮明も例外ではなく、統一教会を立ち上げるまでに、プロテスタント長老派から、キリスト教系新興宗教である李龍道のイエス教会、金百文のイスラエル修道会を経ています。

それらの教団の信者に対する教化・管理手法を参考にしたかもしれませんが、統一教会を立ち上げるまでにKCIA等の諜報機関に薫陶を受けた形跡はなく、当時未発達であった社会心理学の手法を参照したとも思えません。

一部で、統一教会が近代の心理学の実践手法のひとつであるNLP(神経言語プログラミング)を参考にしている、という噂がありますが、NLPが勃興したのは比較的最近の話で、文鮮明が参照するには新しすぎる。
むしろ、文鮮明の「マインド・コントロール手法」がNLPと多くの共通項をもっており、NLPの観点から「マインド・コントロール」を説明すると「後付けの説明として」しっくりくることが多くある。そういうことに過ぎないのではないかと思われます。
(第4章で詳述する予定です。)

私の個人的見解としては、

文鮮明は人を支配する独自の手法を自然に体得して発揮した。

その可能性がもっとも高いのではないか、と思います。

カルトも「マインド・コントロール」も”自然発生”する

私は、カルトというものはある条件が揃えば、自然に発生するものであり、支配-被支配の関係性も、基本的な人間関係の中にその萌芽が内包されているものである、と考えています。

統一教会の「マインド・コントロール」は、その徹底度において異質ですが、方法として先に確立された何かがあって、それを参照して応用しつつ適用した、とは思えません。
自然に成立していったのではないか、と思われます。

カルトのようなものが自然発生する過程については、例えばゴールディングの『蝿の王』という小説があり、そのなかで描かれています。
また、私も、恥ずかしながら、カルトの自然発生の過程を目撃し、巻き込まれた経験があります。

以下、ある沖縄のバンドに関わった経験を述べましょう。
本筋ではないので、詳述はせず、箇条書き形式で要点をお伝えしますが、これ自体が1冊の本になるようなとんでもない体験談ではあります。

◆失業の前後に、Ustream配信(生動画配信)の勉強会を通じて、ある大手広告会社の部長と知り合った
◆その部長が推している2人組のHip-Hopユニットと知り合った
◆そのユニットは、沖縄の離島でDIYのリハスタを作って自主活動している
◆メジャーレーベルからCDを1枚出し、デビュー。その後メジャーとの契約を破棄し、自主活動
◆リハスタをクラブ仕様に改造し、地元の医師から借りているという敷地をガーデン風にDIYし始める過程であった
◆リーダーは作詞・作曲能力、演奏力、頭脳のキレ、言葉の力が突出しており、ハモリ担当の相方と、メジャーレーベルから引き抜いてきたマネージャーを完全支配下に置いてこき使っていた
◆大阪のパチンコ屋の店長と京都出身の大工が支援しており、シンパとしてユニットを支援
◆私は、彼らのWeb広報と生配信とライブ用音源のサウンドエンジニアリングを無償で行うようになった
◆外様ではあるが、2ヶ月に一度程度、離島を訪れ、彼らのリハスタに配信用のカメラを設置するなど、手伝うようになった
◆行くたびに、「ライブ後の反省会」が過激度を増し、リーダーのメンバーに対する糾弾が厳しくなった
◆リハスタの中に祭壇のようなものができ、海岸で拾ってきたという石を置き、毎朝その前で「集中力を高める」儀式のようなものをするようになった
◆漫画『ワンピース』を”教典”のように共有し始めた
◆リーダーが作った曲の歌詞の断片を、生活の中でメンバーが諺のように使うようになった
◆ある時行くと、曲に合わせてリーダーが電子ドラムを叩き、7-8人のメンバーが全員ドラムスティックを持たされ、一心不乱に目の前のクッションや雑誌を叩き狂う、という異様な光景に出くわした
◆その夕食会で、その日のライブの「反省会」が行われ、私が意見をしたところ、リーダーが怒り出した
◆怒り出したリーダーをなだめていると、突然大工がブチ切れて酒瓶を叩き割り、私に襲いかかってきて一瞬で修羅場にTT
◆椅子をひっくり返したりしながら応戦し、なだめるが落ち着かず。リーダーの前に座らされ、メンバーに取り囲まれた状態で説教が始まる
◆警察への通報も考えたが、「通報したらコイツらは終わる」という情が働いてできず。説教に応じてしまう
◆「お前の生き方がこれこれでダメ」等、人間性、性格、発言、行動、体格、容貌の逐一を全否定するような人格否定の説教が延々と続いた
◆ぶちきれた大工はずっと「殺すぞ」「埋めるぞ」と脅し続けた
◆とにかく話を合わせ、申し訳ないと謝り続け、解放されたのは明け方。説教開始から約6時間後のことだった
◆メンバーは、直後に「あんなに真剣に話してもらってよかったですね」「自分が叱られている、と思って(マッツへの説教を)聞いていた」と私に発言
◆リーダーは、「あいつ、帰り際、俺に挨拶しなかったな」と呟き、次の日の昼間にマネージャーを通じて私に「出入り禁止」を通達してきた
◆その後、仲介に入ったパチンコ屋店長は、「ハモリ担当の相方とマネージャーのあいつが悪い。あいつらのせいでカルトになる」とリーダーを庇う
◆その後警察に相談するなど、一定のアクションを取ったが、「友人」として情が働いて徹底できず。1年後に長文の手紙を書いて、リーダーには全面謝罪させた。

このようなことがありました。

人間としてのトータルのパワーが突出して大きなリーダーが一人おり、誰も彼に言い返せなくなり、メンバーやその取り巻きが徐々に思考と行動を支配されていく、という過程です。

この集団では、定期的に行う「反省会」の場で、リーダーによってメンバーが徹底的に、人格否定され、抗う力を奪われ、リーダーの人生観やものの見方を叩き込まれる、という”洗脳”が自然になされていました。
リーダーは高卒で、特に読書家ということはなく、漫画『ワンピース』が最大の参照物でした。

最終的に、メンバーは、音楽ユニットの活動上起きる問題を「すべて自分が悪い」という思考回路に繋げるようになり、誰もリーダーに逆らわなくなっていったのです。

私は、リーダーと2回、激しい口論をしていますが、2回目の時に上述のような修羅場になりました。
その直後の長時間の説教中には「これはカルトだな。こいつは支配のために私の人格の破壊を試みている」としっかり認識していたので、心の防御をしつつ、反省しているふりをしてその場を逃れました。

その後、”洗脳”に失敗した、と悟ったリーダーは(このあたりの洞察力はさすがです)、すぐに私に「破門」を言い渡す、という結果になりましたが、一連のリーダーの行動はどう見てもカルト教祖のそれです。

単なる音楽ユニットのリーダーが、僻地で小集団を形成し、人里離れた場所で社会的価値感と乖離し、徐々にセクト化していく様子には、驚くべきものがありました。

本項目の要点から少し外れるので、詳細な分析は他でしますが…

こうしたことは、実は「よくあること」です。

この経験をツイッターで呟いたところ、同じように「人生を豊かにする音楽をやっている」という軽音サークルの先輩に僻地の手作りスタジオに連れて行かれ、”教化”されそうになった、という経験を話してくれた方がいました。

また、DV夫が妻を支配するとか、パワハラ社長が社員を支配する、といった場面も、しばしばあることですが、ほとんどの場合、そうした”支配を試みる人物”はその手の「ブラック心理学」のような本を見て学んだ上で実践しているわけではありません。

私の個人的見解では、その手の本を手に取ろうとする人物は、そもそもそういう素質がない。
また、そのような本を読んだからといって、すぐ体得できるわけでもなく、トレーニングが必要です。

何らかの形で人を支配することに長けている人物は、その生育歴から、自然とそういった振る舞いを体得し、実際の人間関係の中で実践し、磨きをかけてきて、発揮しているケースのほうが圧倒的に多いと思われます。

つまり、カルトも「マインド・コントロール」も、わざわざ体系化された社会心理学の教科書的知識を習わなくても、自然発生する、ということです。

北九州監禁殺人事件や尼崎連続変死事件は、犯人が被害者に命じて殺し合いをさせる、という異様な事件でしたが、そこでも同じような「自然発生する支配の手法」が使われたと思われます。

その自然発生する支配方法が、よりシステマティックに教義や生活や活動の隅々まで徹底して整えられているのが、統一教会の「マインド・コントロール」なのです。

術者に自覚は本当にないのか

さて、上の段で、述べたことを引用します。

ただ、「操る者」もマインド・コントロールを受けており、「操る行為」も「操られて行なっている」わけですから、「操っていること」に対しても非自覚的です。
ですから、統一教会の信者が「マインド・コントロールなどしていない!」と主張するとき、
「自分は操られていない」ということと同時に、「自分は操ってもいない」ということも言っている、ということになります。

これを改めて考えると、「操っている側」に「操っている」という自覚が、本当に末端の中間管理職の信者の中にないのか、全くないのか、ということについては、吟味の余地があります。

少なくとも、前段で述べた「自然発生するカルト」においては、支配者には、以下のような自覚があります。

(親身になって)
・教えている
・指摘している
・改善を指導している
・導いている
・躾けている

さらに、統一教会の場合は、スティーヴン・ハッサンが「行動コントロール」と呼ぶ要素によって、下の立場の信者を特定の環境下に置いて、

・神様が働くようにする
・サタンが入らないようにする

といった強い意識があります。

要は、「マインド・コントロールしているか?」と質問されれば「No!」と答えるでしょうが、「神様が働くように、教え導く環境を整えているか?」と訊かれれば「Yes!Yes!Yes!」と答える。

そういうことです。

しばしば、子どもを虐待して逮捕された親が、「虐待ではない、躾だ」と供述するのに似ています。

「虐待」は”悪いこと”です。
同様に、「人を操作する(マニュピュレートする)」「人の精神を支配する」という言い方に対して、いい印象を持つ人はいないでしょう。

“悪いこと”をするためには、人はそれを“悪いこと”だと認識しないようにして、罪悪感を感じないようにする心の持ち方が必要になってきます。
そうした心の持ち方をするために、自分にも、相手にも同時に「言い聞かせる」という操作が必要になる。

「貴方のため」だとか、「神様のため」だとか。

統一教会信者は、その手の「言い聞かせ」のフレーズを、教団から与えられます。
また、統一教会教義を身体化している信者は、自分でひねり出します。

そうした「言い聞かせ」を相手に行いながら、自分をも騙し、偽りにかかるのです。

それも統一教会のマインド・コントロール手法の一部です。

統一教会信者には、「あのさぁ、それがマインド・コントロールなんだよ。精神支配なんだよ」と教え、認識させ、納得させる必要があります。

もちろんこれは大変なことですが。

私は、上述の音楽ユニットのリーダーに、「君たちがやってることはこれこれでカルトだ」ということを長々としたやりとりの果てに納得させ、謝罪させました。
同じことが統一教会に対してできるとは…残念ながら思えません。

せめて、今でも統一教会の信者体験によって、精神を歪められ、社会復帰に苦労する元信者は、「明確なマインド・コントロールを受けた」ということを自覚して、意識して脱洗脳をしたほうがよいのではないか、と考えています。

統一教会のマインド・コントロールによる弊害

詳しくは、第5章 統一教会信者の思考・世界観・人格 のところで述べますが、統一教会を脱しても、統一教会の思考様式や価値観が抜けない、ということはよくあります。

特に、「統一教会を離れたら不幸になる」といった刷り込みが、脱会後かなり影響することは確実です。

統一教会の教義を知った上で離れて子どもを作ったとしたら、障がいをもった子どもが生まれる、といった脅しのようなことを、文鮮明は講話の中で繰り返し語っています。
それが無意識に作用して、10年経っても理由のわからない姙娠に対する不安があり、子どもを作れない、といった事例が、スティーヴン・ハッサンの著作でも紹介されています。
その信者は、たったの3ヶ月しか在籍していなかったそうですが、それだけ深刻な影響が後々まで残るということです。

パートナーに巡り合って結婚している人はまだしも、統一教会が最大の罪と設定する恋愛に対する恐怖感が抜けきれず、ずっと1人で過ごしている人も多くいます。

また、教化の途中のカウンセリングで、もとの人格を破壊される、といった説明を前項目でしましたが、この影響も深刻です。
例えば「医者になって世の中を助けたい」といった目標をストーリーとして語る人に、「それは神様を中心とした願いなのだろうか?自分を中心とした自己中心的な、サタン的な願望ではないか?」といった投げかけがなされ、その強い目標意識をバラバラにされ、悪いこととして定義づけるような”カウンセリング”がなされるのです。
一度、そのように解体された価値観は、統一教会の教義が抜けたあとも、簡単に修復できません。

何か目標をもっても、「そんなことに意味があるのだろうか」「どこまでも自己中心(悪いこと)ではないか?」といった疑問のもとに、強い動機づけを行うことができず、なかなか社会復帰に向けた一歩を踏み出せない、といった人が、脱会者の中には多くいます。

目標のために継続していた鍛錬や努力も、「(統一教会の)神様のためにならない」と教団の先輩信者に言われて、やめさせられ、培ってきたスキルを失ってしまうことも少なくありません。
(特に語学や楽器演奏など)

そうした脱会者の苦しみを、統一教会は、「真理(統一教義)を知りながら離れたから罰を受けたのだ」と位置付け、一蹴するものと思われます。

そんなことはありえません。

脱会者の不幸は、統一教会をやめたことによるのではなく、統一教会に入ったことに基づいています。

脱会者の喪失は、あらゆる観点で見て、統一教会のマインド・コントロールによって、破壊され、損なわれた結果だということです。

統一教会のマインド・コントロールとは、社会に生きる普通の人々の心と人生を破壊するものという認識を、社会全体で共有する必要があります。

統一教会が用いている「マインド・コントロール」をそのように位置づけて、本項目の結論とします。

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統一教会(原理研究会)の元信者の体験を詳細に記述することにより、統一教会の実態、洗脳・マインドコントロール法をかつてない詳しさで明らかにし…

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