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絵本の原画を見たくなる気持ちと違和感

前回に続いて、絵本の原画について考えてみたいと思う。今や、絵本の原画展は、美術館で開催される大掛かりのものから、作家さんの個展やグループ展としてギャラリーで開催されるもの、書店さんや図書館などが自身のギャラリースペースを使って開催するものまで、機会がとても増えている。

私が、絵本に興味を持ち出してまだ10年に至っていないが、この1〜2年の原画展の開催は数倍にもなっている感覚がある。これは私の原画展への感度が上がっている結果かもしれないのだが、日常的に至る所で開催されている印象が強い。

「絵本好き」の私とすれば、絵本のもととなる原画に触れることができるというのは、気持ちが高揚するはずだが、その一方で違和感がなきにしもあらずなのだ。

原画の方がすばらしい?

絵本の原画を見て「やっぱり原画は、すばらしいですね〜」という方も結構いると思う。私などは、へそ曲がりだからなのか? 原画を見ても、これがあの絵本になったのね〜と思うくらいのことが多い。ときには、原画がむしろ残念に見えて、エー!と驚くけれど、出来上がった絵本(完成品)のすばらしさを思うと、作り上げた作り手のみなさん(作家さんだけでなく、編集者や印刷屋さん、装丁家さんなど)のプロの力を逆に感じたりする。

なんとなく原画というだけで、すばらしいと感じてしまう「原画至上主義」的な捉え方はどうも馴染めない。

違和感のもと

絵本と原画の関係は、料理に例えれば、出来上がりとその材料と言えよう。

原画をやたらに褒めるのは、例えれば、肉汁がギュッと詰まったウマウマのハンバーグステーキがあって、それをおいしいおいしいと言いながら、ハンバーグのもとになったミンチのお肉を見て「さすがA5ランクのお肉は最高にうまい!肉質が美味さのすべてですね〜」と言っているようなものだ。

肉質もさることながら、調味料の調合、こね具合や焼き具合など、料理人の技術や心意気まで、美味しさに影響するはずである。

なのに肉質に強く意識が行ってしまうと「A5ランク至上主義」的な違和感に行きつく。A5ランクの肉の醸し出す味わいは希少価値かもしれないが、美味さのすべてではないという点がポイントなのだ。

特に、絵本の場合、絵と文章という2つ要素から成り立っているにもかかわらず、ついつい絵に重きを置いて考えてしまう傾向から、原画=すばらしいという単純な図式が生まれやすいのだと思う。

少し脱線するが、この誤解から、絵が描ける人=絵本を作れる人という意識も結構生まれやすい。私は、下手の横好きで、イラストを時折描いたりするが、絵本の活動をしているものだから、ドンハマ★さんも絵本を出せば良いのに〜と言われることがしばしばあったりする。

ありがたい言葉と受け止めつつも、実際の大変さを思うと自分が絵本を作り上げるなど、想像もつかないのだが、絵が描ける人=絵本を作れる人と誤解する向きは結構多いと思う。

絵本の原画という存在は、「絵がすべて」的な勘違いを起こさせてしまう魔力を秘めているとも言えるだろう。

小説と もとの原稿

さて、絵本と原画に近い関係に、小説とそのもととなった原稿があると思う。

有名作家の回顧展などで、自筆原稿があって、原稿用紙にこれでもか!と言わんばかりに推敲の跡があったりする。ここからあの作品が生まれたんだとしみじみと感じ、実際の本以上にありがたい存在に思えたりする。

小説本そのものではないのだけれど、もと原稿は、小説本の主要素に感じるので、私は違和感を持たないのだと思う。(装丁家にしてみたら、そこはすごい違和感かもしれないが)

料理でいえば、デザートでフルーツ盛りを食べながら、その原材料の採りたてフルーツを目の前にしている感覚だ。もちろん美味しさの中身に、切り方や盛り付け、温度管理などもあるだろうが、その場で「やっぱり採りたてのフルーツは最高!ですね〜」と口走ったところで、さほど違和感はない気がする。

浸りきれないもどかしさ

私が、まるで「原画展はNG」と主張しているように取れるかもしれないが、隔年ごとに開催される「ブラチスラバ世界絵本原画展」には通っている。日本国内においても、各地の美術館を巡回していて、各国の絵本の動向を肌で感じることのできる数少ない機会なので、毎回、楽しく有意義だと感じている。

しかし、絵本の原画が一枚だけ展示してあるような場合では、なかなか浸れない自分がいるのも事実。というのは、その絵本作品の別の絵や絵本そのもののことが気になってしまう。原画のところに、実際の絵本が展示してあって、自由に閲覧ができる場合もあるのだけれど、かと言ってそこで絵本をゆっくり見ようという気になかなかなれない。海外の絵本なので、そもそも言葉がわからないという事情もあるが、原画の展示場所で絵本を読む気持ち意外とは湧きにくいものだ。

例えば、ルーヴル美術館で、モナリザという1枚の絵にじっくりひたるということがあるとして、それと同じような感覚にはなかなかなれないということなのだ。1枚の絵だけで完結しない、絵本の性でもあると思う。

では、ひとつの絵本作品の原画をすべてその場所に展示するのはどうだろうか? 実際にそのような原画展もかなりあるように思う。確かに、知らない作品の場合は、ひと通り読めてラッキー的な気持ちにはなる。しかしながら、1ページづつ、めくっていく、絵本そのものの楽しさには、到底かなわない気がしてならない。

ならば、どこに絵本の原画展をする意味があるのだろうか?

絵本の原画展の意味は…

単純に私は、絵本に触れる人が今より増えて欲しいと願っている人間である。原画を見るのをきっかけに絵本に興味を持つ人が増える可能性はあるし、そうあってほしいと心から願う。そういう点では、原画展の開催は歓迎すべきことだと思う。

しかし、その一方で、流行りにも思える今の状況には、そこまで必要なの? と正直思う部分が強い。原画をいろんな方に見てほしいという純粋な気持ちもわかるし、時には、販促という視点からも必要という声もあるだろう。

しかし、本来は、その1冊の絵本がすべてのはずである。絵本そのものは、書店に並ぶなど、人の目に触れる存在。それに対して、原画は「蔵」にしまっておくもので、簡単に晒すべきものでないとも言える。

あくまで仮にという話ではあるが「とにかく原画を展示」というような安易な選択が行われていたとしたら、原画という存在が消費され続け、その神通力は瞬く間に底を尽いてしまうのではないかと懸念する。

原画の味わい方について、その頻度や手法など、いろいろな可能性があるはずだ。絵本やその原画を専門とするキュレーターが存在すれば、そのような懸念を吹き飛ばし、新しい価値を生み出してくれるかもしれない。


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