鏡(きょう)。

鏡には生まれつき自我が欠落していた。もし鏡がホモサピエンスを形成していく過程に産まれていたとしたら、真っ先に肉食動物に喰われていただろう。へその緒を裁断されたその瞬間から、鏡に然るべき意志はなかった。しかし、現代社会は産み落とされた幼児を甲斐甲斐しく世話するように組織されている。生きる意志すらも持ち合わせていなかった鏡は、システマチックに成長のベルトコンベアに仕分けられた。

鏡はそのラインを進んでいくことで、自然と第三者的に生きることを会得していった。鏡自身に意志はなかったけれども、第三者的な選択をロールプレイングしていくことはできた。

やがて、鏡は周囲にいる人間の方を映す鏡になった。怒りっぽい人の前では野党第三党の議員のように、慈善的な人の前ではマザー・テレサのようになった。もちろん、他人を映す鏡としての役割を果たすことに、鏡はいかなる感情ももっていなかった。裏腹に周囲にいる人間の方は、鏡と過ごす時間が他の誰よりと過ごすものより崇高に感じた。(自分自身と話しているのだから当然だ)

鏡はあらゆるものを映す。しかし、鏡自身だけは映すことができない。自分自身が映らないことに対して、鏡は何とも思っていない。

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