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偶発の失踪。

理由もなく仕事を飛んでしまった。僕は自分が思っていたより疲れていたのかもしれないし、さしたる理由なんてそもそもないのかもしれない。僕はいつものようにスーツを身に纏ってドアを開けた。ふと、開いたドアを締め直し、スーツを脱ぎ捨てて眠った。極楽の泥みたいに眠った。目が覚めて、もう会社に行くことはないな、と確信した。それから数日が経って、僕は空港に向かった。適当な当日券を購入し、松山の地に辿り着いた。

「退職金はいらないの?」

女性は知らない文化に触れるみたいに尋ねた。居酒屋のカウンターは狭くて、女性の肩がよく当たった。

「なんというか……関心がなくなったんです。まるで、憑いていた生き霊がすっかり取れたみたいに」

僕はみかんのリキュールを一思いに飲み干した。何かのワクチンを打ったみたいにアルコールが回らなくなった僕は、あれ以来ずっと酒を飲んでいる。酔わないなら酒である必要がないとは思ったが、習慣はなかなか抜けないものだ。

「それは、不思議な経験ね」

女性はみかんサワーを上品に含んだ。街はまるで絶滅させた過去を憂いているみたいに、みかんで溢れかえっている。

「本当に、生き霊が憑いていたのかもね」

「思う節はありませんが」

「うっかり取り憑いちゃったのかもよ。堅気な生き霊が、うっかり」

僕はその可能性を考えて、いささか腹が立った。ようやく酔いが回ってきたのかもしれない。

「そうであったら、僕の10年を返して欲しいものですね」

女性は僕の肩に体重を預けて呟いた。

「誰の10年も、そんなに変わらないよ」


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