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ひとつのお花の指輪

始まりは中学生、不登校で引きこもっていたあの頃。何の意欲も興味もわかず、ただ朝と昼と夜が過ぎてくのをじっと見守る日々だった。

いとこの姉ちゃんからいつかもらった手作りのお花のビーズの指輪が部屋の机にちょこんとあって、ただそこにあるのをボーっと見てて、ただボーっと見てたらビーズの粒が糸に通ってることが見えて、「どうなってるんだろう?」って疑問が湧くようになって、見よう見まねで、気づいたら家にあったビーズを探し出して紐を通してた。

いとこの姉ちゃんが作った指輪は、うちにある糸とは違ってて、「なんだろうなぁ、丈夫そうだなぁ」と思って見てたら、誰かが「釣り糸みたいね」と言って、アメリカのおばちゃんが基地から買ってきたぶっとく撒かれた大きな釣り糸をくれた。

後になって、その糸は「テグス」という名前だということが分かった。人の目を気にしながら、母ちゃんに連れてってもらった手芸屋さんで知った。手芸屋さんに行ったあの時のワクワクや喜びをよく覚えてる。

私はおばちゃんからもらったその釣り糸で、何年も、何年も、見よう見まねで作り続けた。作っても作っても全く減らないほど長く撒かれた釣り糸だったから、お小遣いもあまりない身としては本当にありがたかった。お花、カゴ、女の子、アクセサリー、いろんな道具をちょっとずつちょっとずつ買って、ちょっとずつ新しいことにチャレンジした。上手とか下手とか、どうでもよかった。ただやってみたかった。いろんな形や色や道具を使ってみたかった。見よう見まねから、真似と真似を組み合わせるようになり、いつの間にか自分で考えたアイディアで、人の作品や本を見ずに取り組むようになっていった。

オリジナルのものを褒められるようになったり、求められるようになって、次第に、誰かのために作るようになった。

気づいたら、あれから20年以上の月日が経って、もうすっかり誰かに贈るため以外開けなくなった箱を、最近なぜか目的もなく開けて、なぜか黙々と作り始めてる。

誰のためでもない、自分がただやってみたいようにやるだけ。そんな気持ち、すっかり忘れてしまってた。誰かの評価を恐れていたのか…ピタっと止まっていた手が、頭が、思うままにやってみようかと箱を開いた瞬間、動き出して止まらなくなった。あの頃のワクワクの感覚と近いけど、それよりも、「自分のためにやれること、思うままに取り組むことがどれだけ尊く楽しく、そして続けられることか」とはっきりと分かったことは、またあの頃とは違うのだろう。いろいろな歩みや月日や閉ざした時があったからの今の気づきがあったのだと思う。そのことを忘れないように、できれば毎日黙々と、お気に入りを一つ、作ろうと思った。

あの時何気なく置かれていた一つの指輪。カーテンを閉めきった暗い部屋で、私はその小さな一つから、好奇心、探究する気持ち、ワクワク、集中すること、外出すること、難しい、楽しい、忍耐、繰り返し、挫折、失敗、成功、達成感、充実感、イライラ、爽快感、手芸屋さんのこと、糸のこと、ビーズのこと、周りのサポートや環境のありがたさ、いろんなことを学んだ。何よりもそれらの経験は20年以上経った今の私自身を助けている。誰も意図しないところで、誰も計画や指導がないところで、自然と学びがあった。だから誰かの何かにならないでもいい、目的や意図がなくてもいい。そっと贈ってくれた指輪みたいに、ただそこにそっと、自然体で存在していたいと思う。その人にとっての時がきたらいつか出会える日まで、そっと存在しておこう。

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