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コミュニティ運営グループから抜ける話

   以前触れたコミュニティの運営に、なんだかんだ縁を頂いて3か月半ほどお手伝いしていましたが、今日付で抜けることになりました。
   3ヵ月半色々あり、大変貴重な時間を頂きましたが、方向性の違いをどうしても感じてしまう所もあり、この1か月ほどは抜けるタイミングを探していたような感じでしたが、リーダーの方もそう思っていたようで、渡りに船だと思い提案を快諾して、脱退という形になりました。
   最後に挨拶分をまとめていたのですが、中々自分の考えを上手くまとめられたような気がしていますので、こちらにもシェアして残しておこうと考えました。
   以下特定の名称だけ変えただけの全文になります。

   ここに居るメンバーの半数くらいの方は周知かと思いますが、本日付けで私は〇〇〇を脱退することになりました。
   約3ヵ月半という短い間でしたが、ヒトを見る機会に恵まれ、大変有意義な時間を過ごさせていただきました。感謝しております。

   この3ヵ月、私は絶えず"何故〇〇〇をやるのか"、"何故メタバースなのか"、と言う事を言えるようになることが大切だと言い続けてきましたが、それに対する回答を最後までリーダーから得ることが出来なかったのはとても残念に思っています。
   今日の日本を代表するリーダーたちは皆、明確な"WHY"を定義しています。それが人を惹きつけ、行動を促し、1つの大きなエネルギーになるという確信を持っているからです。
   このグループの催すイベントにリピーターが少なく、またdiscordにも活気が無かったのは、正しくその人を動かす大きなエネルギーである"WHY"が存在しなかったからでは無いか、と今も考えています。そういったものが存在しないグループ、それを語れないリーダーに存在価値がどの程度あるのでしょうか。これが私からこのグループに贈れる最後の問い掛けになりますので、今後も残るメンバーの方、各々にもう1度熟考して欲しいと思っています。

   次に居場所という言葉の定義です。これについても加入当初のミーティングで再三再四お伝えしてきました。貴方達にとって、居場所とはどういった場所ですか、ということです。
   私は小さいながらも3つのコミュニティを運営しています。どのコミュニティも、日常的にそのコミュニティのテーマに沿った話や、たわいもない雑談、気になったニュースについての意見交換や次に集まる日程の話等、大体毎日のようにコミュニケーションを取っています。
   家に帰ってきて家族と雑談するのと同じように、そこに行けば気軽に談笑出来る友人がいつでも居てくれる。いつも安らいで、幸せな気持ちになれるような場所。それが居場所だと、私は考えています。そして、それを提供し続けることが居場所を作る、居場所になる行為だと思っています。
   〇〇〇や△△△はどうでしょうか。そこに行けば居場所があり、対話出来ると多くのお客様が感じているのであれば、もっとdiscordで雑談に花が咲き、火曜に限らずClusterの溜まり場に常に誰かが居るような環境を作れていたはずではないでしょうか。
   ですが、現実はそうなっていません。11月に私とTさんがdiscord活性化プロジェクトを掲げるまでは完全に死に体で、ゴーストタウンのようでした。
   3桁に迫ろうかというくらいの人が1度は自らの意思で参加したコミュニティのはずなのに、どうしてこういうことになってしまったのでしょうか。コミュニティを立てて、多くの人に期待させたものの、中身が無いと気付けば、人は去っていきます。人に期待をさせる、させるような文言を使うということは、それだけの責任が発生するのではないか、と私は考えているのです。
   貴方達がしている行為は、ただイイネが欲しいだけの、自らの承認欲求を満たすだけの、上っ面だけの言葉遊びではないでしょうか。辛い現実に打ちのめされて、苦しい中で安らげる居場所を求めて彷徨って居た人が、期待し入ったコミュニティが実は虚無だと知り絶望した時、その方がどう思うのか、その方がどんな気持ちでまた彷徨っていくのか、相手の立場に立って考える必要があるのではないでしょうか。

   そして最後に残しておきたいことは、人の本質は、言葉ではなく行動に現れるということです。
   『人を動かす』の本の通り、コミュニケーションの触りは、その殆どが言葉選びによって始まります。綺麗事を言えば、人は一時的に寄ってくるでしょう。しかしながら、多くの人が自分の周りに居続けてくれるかどうかは、自分自身の行動次第であると、私は考えています。つまり、発言と行動に乖離があればあるほど、人からの信頼は失われてしまうということです。
   兄の件や仕事・婚活で忙しい、他のメンバーは何も手伝ってくれないと言いながら、他の人に振ったはずの仕事を信じてまかせることをしなかったり、多忙故の規模縮小という苦渋の決断からの当事者会再開を独断で決定したりと、言っていることとやっていることが全く真逆で、ここまでくると、この人の口からはデマカセしか出てこないのではないかと思ってしまいます。
   何故でしょうか。私は、その理由を推し量ることしかできませんが、行動理念の大半が承認欲求で出来ているからではないかと推察しています。分かりやすく言えば、イイネの奴隷です。あまりにもイイネに対する価値観が、他の方と違い過ぎているように感じました。これはSさんとのLINEのやり取りで揉めたことからも明らかだと思います。ですが、当然言えないのです、イイネが欲しいから活動してます、なんてことは。適当に理由を取り繕うしかないのです。そうであるから、結果的に発言と行動が一致しないことが多いのではないかと思っています。

   △△という言葉は、多様な脳と神経の在り方を尊重し、社会の中で活かしていこうという意味合いがあります。そういった理念のある言葉をグループ名に掲げながら、兄の気持ちの在り方を尊重せず、半ば強制的に施設に入れることが幸せだと決めつけたり、他の人から見ると、貴方の発言はこういう風に受け取られても仕方ないよ、という意見を尊重しなかったりと、あまりに視点が一人称に偏っていて、自らを俯瞰することが無い、独り善がりな考え方をしている人が居ることに、驚きを隠すことが中々難しかったです。
   私の文字多めな意見を否定しながら、自らのプレゼン資料は圧倒的に文字の量が多いことを省みないのも、他者には配慮を求めながら自分は他者に配慮しない、独り善がりな姿勢が如実に現れていますよね。一般社会ではこういった考え方を『ワガママ』と言い、合理的配慮という言葉が前向きに浸透しない要因の1つになっているのです。
   対話を重視すると言いながら、対話を拒否して脱退を示唆するのも、とても滑稽に思えます。そもそも対話とは何か、あまり理解していないような場面も散見されました。高等教育の中で、ディベートというモノに触れる機会がなかったのかもしれませんが、今後更に人を惹きつける対話を行いたいのであれば、ある程度教養として必要だと思いますので、早急に機会を取って学んでみることで、少しでも自身を俯瞰して頂けたら幸いです。

   少しばかり長くなってしまいましたが、重ねがさねこの3ヵ月、他には代えがたい貴重な経験をさせて頂いたこと、厚く御礼申し上げます。
   このグループの益々の繁栄を心からお祈りしております。

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