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人間観察と体育

興味の範囲が限定的と言われる自閉症です。どうも。
私は人間というものに興味があり、日々人間を観察することが好きです。
それは実際に目で見るだけでなく、テレビ等の画面越しにも及んでいます。
今日は、画面越しに良く人間を観察することが出来る、スポーツ観戦について、先日色々と思うこともあったので、改めてまとめたいと思いました。

私自身の運動歴

とりあえず、スポーツ観戦と言っても色々あると思うのです。例えば、元甲子園球児の見るプロ野球と、ただ野球が好きなおじさんが見るプロ野球とでは、見方や感じ方が多少異なってくると思います。そういう意味で、私が先ずどのくらい運動して来たのか簡単に書いていこうと思います。

先ず小学校低学年くらいの頃、この頃はJリーグが始まった頃で、サッカーブームでした。私も地域のサッカークラブに入ってサッカーしていましたが、正直自分には合っていなかったように思います。
続いて中学年、この頃には小学生の大半が、習い事として何かしらやっている時期で、その中心にあるのがピアノや珠算に加えて水泳になると思います。私もサッカーに飽きてきたころ、水泳を始めていました。そのおかげか、小4の頃にはメドレーを泳げるほどになり、学年でもトップレベルに速く泳げたこともあって、水泳については高く評価されていたと思います。
そして高学年、この頃はスラムダンクブームでした。当時の小学校としては珍しく4クラスもあった影響で、体育館に収まりきらないほどのバスケットボールクラブ員が居る中で、一応2番目のチームに配属されていました。それなりだと思います。

中学に入り、ロードワークが少ないという理由だけで選んだ卓球部が、実はかなり強い部だった(同学年には全国に行った子も)影響で、その時初めて真剣に勝つために練習する楽しさと、試合で勝つ喜びを覚えることになります。ここでも成績はそれなり。
高校では、ある程度強いところということで、全国制覇の経験もあり、関東常連でもあったアメフト部へ。ちなみに普通に受験して入りました。2年春からスタメンとして、関東大会を経験。その後は怪我に苦しむことになりましたが、良い経験自体はさせてもらったと思っています。

今現在は、趣味で筋トレと、サイクリングしています。
1RMは、ベンチプレス130kg、スクワット170kg、デッドリフト200kgくらい。サイクリングは、良く走ってた頃で週に2~300km、1日の最長で100kmくらいです。余りに消耗が激しいので、自転車屋さんにチェーンとタイヤの消耗具合について聞いてたら、それだけガシガシ乗ってたら当たり前だと言われました。皆さんあまり乗らないんですか?って返したら、何か変な目で見られた気がしました。

こんな感じで過ごしてきました。正直に言えば、控えめに行っても日本人の中で身体を動かす才能自体はある方なんじゃないかな?って思っていますが、小学校の体育の成績は3段階でいつも2、中学校の時は、相対評価だったのもありますが、5段階で3でした。
今回はそういう所にも触っていければ良いと思います。

ヒトのカタチ

日々鏡で自分自身を見ながら、トレーニングしています。私の身体の最大の特徴と言えば、大きく、雄々しい脹脛(ふくらはぎ)だと思います。これは、現在FIFA日本代表のトレーナーを務める知り合いの方にも、こんなデカイ脹脛、色んな選手の脚見てきてるけど中々無いですよ、と太鼓判を押されています。そして、自身の脹脛が他の人より大きいと自覚している人の殆どが、体育の授業は割と苦労したのではないでしょうか?
そもそも何故、脹脛が異常に発達する人と、そうでない人が居るのか?ヒトの体のカタチについて考える機会が無ければ、そういう所に至る機会すら無いと思いますし、大抵の人は、自分は運動が苦手なんだという結論を得て終わりです。
では逆に、脹脛というか、膝から踵にかけて細い人は、どういう場所に多く居るのか?そういう所も、ヒトに興味が無ければ考えつかないでしょう。というより、気になっている状態でテレビをつけてみたら、そこにたくさん居るスポーツ番組を偶然見つけたからこそ、こういうことに関する考えを深めるきっかけを、私は手に居ることが出来たというのが正解なのかもしれません。そう、冒頭の写真でもお分かりかと思いますが、駅伝選手の殆どは、脹脛が細く、それを観察しやすいウェアで走っていたのです。

思い返してみれば、ロードワークが苦手な中学での部活選びの通り、延々走る行為は運動の中でも特に苦手意識が強く、微塵も好きではないので、今でもジョギングするような行為は一切行いません。大きすぎる筋肉は疲れやすく、長時間運動させることに向いていないのだから、脹脛が大きい私がそういう行為を避けるのは、ある種当然だと言えます。
逆に、脹脛が小さい人は、駅伝やマラソンのように長距離を走ることに向いている、向いているのかもしれない、では何故そうなっているのだろう?
そういったことに疑問を持つことが、自分の身体をより良く知るスタートラインになるような気がしています。

脹脛が大きいヒトのモノの見方

どうして脹脛が大きくなってしまうのか、解剖学等を学べばこんなことは大体分かるのですが、基本的に脹脛の大きさは、大体アキレス腱の大きさで決まってきます。つまり、アキレス腱が大きい人は脹脛が小さく、逆にアキレス腱が小さい人は脹脛が大きいことが多いのです。屈伸するときに踵が浮いてしまう人が居ますが、アキレス腱が小さい人は、当然踵が浮きやすくなります。身体が硬いのではなく、アキレス腱が小さいが故に身体が硬いように見えているわけですが、屈伸の時に踵が浮くということだけで身体が硬いというレッテルを貼られてしまって、結果的に身体を動かすことに苦手意識を持ってしまった方も少なくないのではないでしょうか?
アキレス腱が小さく、筋肉が未発達な児童が居たとして、小さい頃は身体の動かし方なんて見様見真似でしょうから、人真似が下手な子は、それだけで運動するのが物理的に難しいと言う事になると思いますし、そもそも真似をしたとしても、アキレス腱が小さい児童がアキレス腱が大きいヒトの真似をしても、同じように動作することは基本的に不可能です。結果アキレス腱が小さい状態で生まれてしまっただけで、走るという動作が苦痛になり、運動音痴というレッテルを貼り付けられていくのです。
逆に、大きいアキレス腱を持って生まれた人は、大抵走るのが得意です。純粋に才能があります。そう、アキレス腱が小さく生まれてしまったけど、運動することに興味を持ち続けたヒトの視点から見れば、箱根駅伝で走っているような人は、身体を鍛えて走っているのではなく、持って生まれた恵まれた脚力と、鍛えた心肺機能によって運動しているように見えています。ですから、心肺機能を鍛えるために高地トレーニングを行いますよね?これは非常に理にかなったトレーニングだと言えます。

土俵の違い

逆に、アキレス腱が小さく、脹脛が大きく生まれてしまったヒトは、こういう物差しの中で身体を動かすということ自体が無駄なのではないか?と私は思っています。
走ることは苦手でも泳ぎは得意。脚を使う球技は苦手だけど、上半身をメインで使う球技はそれなり。そういう状態で入った高校のアメフト部には、私立だったこともあって、プロのストレングスコーチを外部から雇っていました。そして、入ってすぐの走り込みの練習の時に、走り方が違うと指摘されます。
高校に入るまでの15年間私は、走るという行為は、苦手だけど出来ていると思っていたというか、思い込んでいたけど、筋肉のプロから見れば、走っているとは程遠い状態だったと言う事です。残念なことに、小中の9年間1度も指摘されたことはありませんでした。走り方を教わってから2年経ち、高校3年春の体力測定では、体重100kgほどの巨漢だったにも関わらず、50m走を大体全国平均と同じくらいで走りました。学年最下位レベルだった私からすれば、圧倒的に脚が速くなったという実感がありました。
大きな脹脛で作り出すパワーを、身体を前に動かす推進力に変えるための身体の効率の良い動かし方を実践する行為。これが、脹脛が大きいヒト向けの走るという定義なんだということを知ると同時に、どうして今までの体育の先生は、こういうことを教えてくれなかったんだろう?と思いました。
そもそも走るという土俵に立っていなかったことすら知らされていなかったということを察せない自閉症の特性が悪さをしていたのかもしれませんが、体育の成績という数字だけでそれを察しろというのも、少し無理があるのではないでしょうか。

体育とは何か

そもそも勉学の1つの科目として、1つ体育という項目があったような気がしていますが、今思うと何を習ったのか、よく思い出せないでいます。50m走や1500m走のタイムは測りましたが、タイムを縮めるためにどういったアプローチが必要なのか。12個のリンゴを4人に分けるために割り算という手法があるように、より速く走るためには何かしらの手法・課題解決の方法があったはずです。実際、陸上競技というものは科学的なアプローチを受け、大きく進化してきました。
先ず、走り方には何種類かあるということ。その上で児童1人1人の脚や、全身の骨格のカタチから3種類ぐらいにグループ分けして、その特徴毎に適した走り方を教え、その上でどのくらい過去の自分と比較して走るのが上手くなったのか。勉強を進めれば、分からなかったことが分かるようになり、解けなかった問題が解けるようになるに従って、面白さを見出せる子供が増えていくように、出来なかったことが出来るようになったり、自分自身の成長を実感出来たりするような機会を、体の成長と共に育んでいくような取り組みが、体育の本質であって欲しかったと今は考えています。
今私自身の運動能力に、私は割と満足しています。仮に全国民を相対的に5段階評価するのであれば、最低でも4は貰えるという確信があります。でも欲を言うのなら、その才能に気付かせてくれる指導者や、身体のことをより細部まで調べた結果の物差しによる採点にもっと早く巡り合っていたら、今とは違う私が居たかもしれないと思ってしまうのは、欲深いとは思いつつ、嘘であると否定することは出来ません。

機能美

今更なんですけど、箱根駅伝に出ている人は才能があって羨ましいという話ではないのです。ただ、長く走る才能があって、加えて極限まで心肺機能を鍛える覚悟があった。だからこそ、日本という駅伝大国でトップレベルの成績を残している彼らは、本当に素晴らしく、その作り上げられた無駄のない、長く走ることだけに特化された身体は美しいとすら思っています。
それは他のスポーツでも同じで、例えば日本で人気のあるフィギアスケートなんかは、男女ともに美しい選手が多いですが、オフシーズンの彼らのバキバキの大腿の筋肉を見れば、美しさの裏には、私と同じか、それ以上に過酷な下半身のトレーニングを行っているということが分かります。
スクラムを組むラガーマンや、アメフトのラインポジションといった選手というか、最早戦士と言った方が良いと思いますが、大きく、雄々しく、厚みのある身体もまた、相手を正面から受け止め、押し退けるために隆々と進化し、目的を成すのに最適化された結果であると思っていて、そうやって何に向かって直向きに、弛まず続けてきた証を見せてもらった時、ヒトは心を動かされると私は考えていて、だからこそスポーツというものに魅力があるのではないかな、と感じています。

身体を観察して

以前にもお伝えしていますが、鏡に映る私の姿は美しくはないです。大きい脹脛は、走ればすぐに硬くなり、スピードも出せず、タイトなパンツも選べない、ただの欠陥品だと思っていました。ただ、身体に関して多くを観察して、学びを得た今、雄々しい上にに無駄な脂肪もあまり無く、筋肉の形が1個1個確認できるほどセパレーションが目立つ脹脛は、他の人にはあまり無い私の誇りです。脚トレした日の鏡越しに映るそのカタチは、毛の薄さも相まって美しいとすら思っています。そこには、ここ直向きに、弛まず筋トレと向き合ってきた私の姿の一部があります。
ここ数年、他人と比べることを否定する人が多いし、それはある程度必要なことだとは思っていますが、本質的には、他人と自分を比べて、そして自分がどう捉えるかということ、自分自身の捉え方をどうコントロールするのかが問題ではないかと思っています。他人を観察するというきっかけが無ければ、私が私の身体の1部でも好きになることもなかったかもしれませんし、身体が変わっても、心が変わらなかったかもしれません。
皆幼いころから比べられることに慣れ過ぎていて、他者と自分との違いを優劣だけで判断してしまう、今の社会の側に大きな構造上の問題があるのかもしれませんが、そういった物質に捉われた精神は、私の中で幸せとはほど遠いと過去に定義した私からすれば、他人と自分を比較しないことも、違いを優劣でしか判断出来ないことも、どちらも愚かで悲しいことだと思っています。そうではなくて、比較して違いを認めた上で、それが何を意味しているのか、自分の中で再定義された解釈を持つことが大切だと考えています。

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