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『燃ゆる女の肖像』無知、故の無垢な情熱について

プロジェクターとスクリーンを出して、地ビールを凍らせたグラスに注ぎ、トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼとバターたっぷりの炒りたてのポップコーンを用意して、賢く美しい親友との映画観賞会は始まった。

彼女のおすすめを2作品観た。そのうちの一つがこの『燃ゆる女の肖像』だ。ちなみにもう一つは、ウクライナ出身のバレエダンサーセルゲイ・ポルーニンの肉体美を惜しげもなく映したラブロマンス『シンプルな情熱』という映画でした。

燃ゆる女の肖像 ポスタ

『燃ゆる女の肖像』は、映画ならではの"象徴"が織り込まれた作品だと感じた。光の効果、メタファーの多用など。映画を見終えた後に、あのセリフはどうだったとか、あれは何を意味していたのかな?などと、友人と思う存分語り合った。それらの思い出を閉じ込めておくためにも、noteにて感想を書こうと思う。#ネタばれを含みます。

あらすじについて


18世紀のフランスの孤島で暮らす貴族の娘(エロイーズ)のもとに、女流画家(マリアンヌ)が訪れる。望まない結婚の見合いに使う肖像画を、娘に秘密で作成するためだ。
しかし、その作品を完成させる中で、二人は、互いに激しく惹かれあう。館の主人である娘の母親が留守の間、絵画を完成するまでの短い期間に逢瀬を重ねる。
また、この館の女中(ソフィ)に、望まない妊娠が発覚し、彼女は、女主人不在の間に堕胎を決意する。貴族の娘と画家は彼女を支える。
絵画の完成と主人の帰宅によって、エロイーズとマリアンヌの密やかな情熱の愛は終わりを迎える。

いわゆる「観るもの」「観られるもの」の関係について


この映画の感想を調べればたいていの人がそのことを言及している。描かれる女と描く女。観察される女と観察する女。
興味深い点は、物語の中盤で貴族の娘エロイーズが、自分も画家であるマリアンヌを、観られながらも誰よりも観ていることを伝える。その言葉にマリアンヌが、はっとする。時代的に、美しく女性を描くのは男性の仕事だった。一方的に性愛者を観ている気になっている"男性"のようだった。そんな意志を持たない美しい人形である絵画のモデルが、こちらを意志をもって見ている。映画を一方的に観ている視聴者を、その鋭い眼差しで見返しているようにする思った。

シスターフッドについて


私には姉がいて、母も四人姉妹で…年末年始の女性だけの台所の感じとか。決して、男性を仲間にみなさない感覚とかがリアルにわかる。知っていた。
貴族の娘エロイーズは、自由のない結婚を拒んでいた。
画家であるマリアンヌは、時に男性として絵画を発表することもあった。
女中のソフィは、望まない妊娠をし、相手にそれを伝ることなく堕胎を行う。
象徴的な場面は、エロイーズの母親が不在の中で3人が食事を用意する場面だ。本来その役割を求められている女中のソフィではなく、お嬢様であるマリアンヌが準備をしていたのだ。
彼女たちに結ばれた絆は、もはや姉妹のような強固なものだった。
皮肉なことに"男性社会"という共通の敵によって、女同士の絆は強く結ばれる。
また、エロイーズの母親は、女であるが、その輪の中に入ることができない。彼女は、男性社会が老いた女性に求めることを体現するだけだ。裕福なミラノの貴族と娘が結婚することが幸せだと望む。女流画家に対しても、娘に画家であることを隠して接することができるという利点のみで雇用した。女中のソフィが、妊娠を主人に言えない理由は、語られずとも我々は容易に察することができるだろう。
最後に、この映画で私がもっとも美しく感じたシスターフッド的な場面は、3人で出かけた女だけの村での祭りの様子だ。夜、薪の前で、老若問わぬ貧しそうな村の女たちが歌唱する。"フォークロワ"という言葉が頭をよぎる。民俗学的な伝統的な叫び声のような、独特のリズムと歌唱。ほとんどBGMがない映画だっただけに世界観に引き込まれる。そこで、エロイーズは文字通り”燃ゆる"のだ。薪の火の粉が彼女のスカートに移り、燃えた彼女をマリアンヌは見つめた。

堕胎という神話


女中であるソフィの堕胎はうまくいかない。無理な運動、禁じられた薬品。迷いもなく、子を堕ろすことを望んだソフィは祭りの夜、村の老婆に秘密のお願いをする。別日に老婆の家へ、3人で向かい、貧しい老婆の家で赤ちゃんや幼い子が無邪気にほほ笑む横で、ソフィは老婆による堕胎の施術を受ける。施術といってもこの時代の、隠された場所での堕胎であるので、非常に危険なことは察せられた。横になって苦しむ彼女を観て、私はミレイのオフィーリアを連想した。ただ、もちろん、男性が描いた悲劇の娘ではなく、女性が見る現実の悲劇の娘。ソフィにくぎ付けになっている私と、あまりのショックで目を背けるマリアンヌ。エロイーズは、その様子をじっと見つめ、マリアンヌにしっかり見るよう言う。そして、その晩、堕胎と同じ構図になるようソフィを寝かせ、その姿を描くよう、エロイーズはマリアンヌに勧めるのだった。

ミレイ オフィーリア Wikipediaより引用

物語のラスト 絡み合わない視線を考える。


2人の愛の終わりは、大変美しく、オルフェウスの神話になぞらえられている。(日本人は、イザナキノミコトの黄泉の国の話を思い出しますよね。)その場面については、美しいなという感想しかないので、大切な場面だあるが、特に多くは語らない。強いて言うなら、振り向くことは永遠の別れであり、それは二人ともあの時深く愛し合っていたとしても、受け入れていたので、マリアンヌはあえてふりかえらせたのかな?と思った。せめて美しいエウリディーケとしてのエロイーズを目に焼き付けてもらいたいと…。
その場面で終わるかと思いきや、二人は二度再開する。一度は絵画を通して、最後は実際にコンサートで。なぜあの時、エロイーズはマリアンヌを見つめなかったのか?エロイーズがマリアンヌをもう愛していなかったからではないのは明らかだ。その前の絵画での再会では二人の思い出の本に秘密を施していたし、コンサートで二人の思い出の音楽を聴いていたエロイーズの表情は愛に溢れていた。とはいえ、エロイーズが観ているものはすべて過去のマリアンヌであり、だからこそ今この瞬間では二人は決して視線が合わなかったのではないかと思った。

エロイーズの美しさとは? 無知、故の無垢な情熱について


最後にエロイーズの魅力とは何かについて考えたいと思う。表題が『燃ゆる女の肖像』である、宣伝のビジュアルもエロイーズであるので彼女の魅力がこの映画の大切な核であることは間違いない。(私は、マリアンヌとソフィも負けずとも劣らず美しいと思っているので、単にエロイーズが特別美しかったからではなく、そういう理由から彼女について言及したいと思った。)
エロイーズの魅力は、無知故の無垢な情熱だと私は思う。
作品で描かれた女たちは、男のいる社会と過去に繋がっていて、そこできっと失望やあきらめを経験したのだと思う。マリアンヌは女が仕事を持つなんて当たり前でない時代に、父の家業を継ぎたいと思っていて、そこには屈辱を受けたり、傷ついたりした過去が間違いなくあったと思う。ソフィは言わずもがな、堕胎によって男との接点が読み取れるし、エロイーズの母親もマリアンヌと同じように自由のない結婚を強いられ(それを不幸に思っていたかは別として)役割を受け入れて生きてきたことが分かる。
実はエロイーズだけが、男との接点がほとんどないのだ。父親はいない、兄も弟もいない。修道院にずっといた。そんな彼女だからこそ、諦めや妥協することなく、"現実に疑問を素直にぶつける"。
ミラノがよい場所だし、彼女の結婚相手がめちゃくちゃに悪い人ではなさそうだった。しかし、エロイーズは将来に対する、選択肢がないことがおかしいのだとマリアンヌに冒頭はっきりと言った。私はあの場面を見て、多くのこういう時代の女性が自分の求められる定めを受け入れて、強く生きている姿の物語が好きだったから、少し傲慢に感じてしまったのだ…!
また、中盤に一度、エロイーズの肖像が完成するのだが、その時にエロイーズは私はこうではないとはっきり描かれた自分を拒絶する。実は私はその場面も違和感があり、他者から見られた自分はある種真実であるのに、どうしてここまで否定できるのだろう?と疑問を抱いたのだ。
ただ、映画を見終えてエロイーズの魅力を考えると、そういう姿が頭に浮かぶ。経験不足による、偏見に惑わされない、妥協しない瞳。先進的な賢い強い女性という印象は全く抱かなかったが、子供っぽい、少女のようなまっすぐな瞳に強さを見た。挫折を知らない、無知で無垢な強さと情熱を。


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