見出し画像

自己矯正記⑦ 「正しいと思ったならやりなさい。悪いと思ったらやめなさい。それでいいから。」

とある介護事業所の責任者をしているryuです。

私は昔からとても「褒められたい」という欲求の強い人間でした。
褒められたい、注目されたい、すごいと思われたい、誰かよりできると誇示したい。
これらは全て自分を上に見せたいという「優越感」を求めての欲求です。
アドラー心理学では「優越コンプレックス」と呼ばれるそうです。
その根底にあるのは「劣等感」であり、劣等感とは比較する他人がいて初めて成立する感覚です。
それ故に人の悩みは「全て対人関係に起因する」としており、それを解消するには課題を自分と他人にきっちり分離して、自分は自分のやれることを精一杯やるだけでいいといったようなことを提唱しています。(やや語弊のある説明です🙇‍♂️

課題を分離するということは極端な言い方をすると「他人の決断など自分には関係ない」ということです。
自分の課題は自分だけのものであり、他人の課題もその人だけのものです。
そう言いながらも人の幸せは「他者貢献」であるとしており、もう何が何だかわからなくなります。

また「他者を無条件に愛し敬い信頼し、優劣や上下といった隔てはなく同じ地平に立つ人として見る」と、その言葉だけ聞けばいかにも胡散臭い宗教のような概念が必要不可欠だとしています。

対人関係が悩みの元といい課題を分離するのに、全てを無条件に愛し敬い信頼した上で貢献しろ?
もうなんのこっちゃです。

が、私はそんなアドラーの心理学が好きです。

まだまだ浅学で入り口に立った状態ながら、私なりに受け止めたアドラーの心理学をアウトプットさせていただきます。

「祖母のように生きたい!」

アドラー心理学では承認欲求を全面否定しています。
それはつまり過去の私を全面否定です。
35年間の私、乙。

人っていうのはなんだかんだ言っても何か自分がしたことに対してどこかで「見返り」を求めてしまいます。
例えば…
【後ろの人のためにドアを押さえて開けておきました。
後ろの人はドアを通った時、スマホをいじってこちらを見ないまま行ってしまいました。】
これに対して「会釈くらいしても」「ありがとうと言えないのか」って思っちゃいますよね?
そして決まり文句が「お礼を言われたくてやったわけじゃないけど」です。
これって結局見返りを求めた行動になるので、アドラーのいうところの「他者貢献」には当たりません。

『ドアを押さえるかどうか、は私の課題。
お礼を言う言わない、は他者の課題』です。
お礼を求めることは他者の課題への「介入」になるので、これでは課題の分離をできたことにはなりません。

ここまではアドラー心理学的な考え方。
これを基本方針に
「他人がどう思うか、どうするかなんて気にせず、他人のためになることをして生きよう」
と決めました。で、実はこれ私の祖母の生き方だったんです。

私は他人の求めることをトレースして感謝されることを前提にし、他人の中に自分を置いて他人の前で良い格好をして生きてきました。
祖母はただ「誰かが楽になるなら」という思いだけで淡々と誰にも気付かれない見えない所で行動し、「これ、誰がやったんだろう?」みたいにしていました。

めちゃくちゃカッコ良くないですか?

評価も感謝も求めず誰かが喜んだ顔を見ることさえもせず、ただただ自分が正しいと思ったことをし続ける。
簡単なわけないですよ。
けど、だからこそ祖母は関わった全ての人に愛されたのです。

先日スタッフが話してくれました。
一年前、すでに認知症も重度でコミュニケーションなんてとても取れない状態の祖母に、
「私どうしたらいいかわからない。仕事も辞めたいし何したらいいかわからない。」
と話しかけたそうです。
すると普段会話なんてできない祖母が

「正しいと思ったらやりなさい。悪いと思ったならやめなさい。それでいいから。」

と教えてくれたそうです。

おそらくそれが祖母の行動理念です。
誇らしい祖母に恥じない孫になれるよう、私も祖母の行動理念を引き継ぎ生きたい。
心からそう思います。

最後は小学生の日記みたいな終わり方でしたが、読んでいただきありがとうございます😊

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?