見出し画像

夢を諦めると言うこと

皆さんは「夢」をお持ちですか?

もしくはそう、
夢を「持って」いましたか?

僕は「夢」を持っていました。

否、いきなり少し斜に構えたような表現を使いますが、
本当は「夢」を持つことを免罪符に、ただ現実から逃げていただけでした。

恐らく、いや、これは間違いなくそうです。
なぜなら、意外とあっさりとその「夢」と思しき、

衝動?
執着、妄想、耽溺、自己愛?...。
を過去のモノに追いやることができたからです。

夢を諦められたのです。

諦めるにふさわしかった、とも言えます。

あっさり、
と言うと語弊があるかも知れないですが、
平たく言えば、
それに懸けた時間や、失ったものの大きさに比べたら、苦しみは一瞬であった、
と言う意味です。
だからこそ、冒頭言いました通り、
自分のかつて持っていたものは、

「夢」と言う、いわゆる「将来実現させたいと思っていること」より、
むしろ、「現実逃避の口上」であった、と思うに至ったのであります。

一度それを自分の外へ追いやった今、現在、僕はその「夢」の対象と、
恐らく、丁度良い距離感で生きることが出来ています。

これが、
夢が雲散霧消していく過程のごく普遍的な姿であったのか、
はたまた、自分が「夢」として描いたモノは、
やはりその程度の「夢想」の片鱗でしかなかったのか、
知る由もありません。

しかし、一つ言えることは、
あの時、「夢」らしきものを思い描き生きていた頃の自分の生き方や精神の在り方は、本当に危険との背中合わせであった、
と言うことです。

あの「夢」をさらに多くの時間追いかけていたら、
多分僕は今頃、

誰かを愛する人間ではなく、
もしかしたら誰かを憎む人間になってしまったかも知れない。

それ程、文字通り正体を失った日々を送ってしまっていたのです。

今回のテーマはまさしく、自分自身の経験を基にした、

「夢」の見方の悪い例、
現実逃避と夢を混同する危険性

について、記したいと思います。

なぜこれを書くのか?
理由は、
現実逃避を「夢」と置き換えて生きている、
かつての自分と同じような人が多く存在することを知っているからです。
他でもない、
それは、今のあなたのことかも知れません。

僕が夢、らしきものを「捨てた」のは22歳、

(そんな若くして捨てた時点で「夢」ではない?
いえ、「夢」に年齢制限はありません。
いくつだって胸に抱くことができます。
抱くだけなら・・・。)  

就職をする1年前くらいのことです。
捨てた、と言っても、物理的に何かを捨てた訳ではなく、

「あれ?自分ナニやってたんだっけ?」

という言葉が口からこぼれ落ちる感覚・・・。
ある時、突然、まさしく、夢から醒めた瞬間を迎えました。
後にも先にも「血の気」が引く音を耳に聞いたのは、
あれが最初で最後でした。

「就職をしなければいけない」
その為の活動を開始すべき時が自分にも訪れたのです。

死神が「終了」を告げるベルを手にぶら下げて、
突然眼前にやって来たかのように感じました。

現実認識の帳が一瞬にして容赦なく自分を包み込み、
それと同時に、ストンと音を立てて、
抱いて来た筈の「夢」が自分の胸から足元に落ち、
すぐに消えて見えなくなるのが分かりました。  

その直後です。

とてつもない、味わったことのない恐怖感が襲ってきました。

自分はこれからどうしたら良いのか?

この現実世界で生きていけるのか?

なぜ、多くの時間を無駄に過ごしてしまったのか?

何一つ学ばないまま年だけ取ってしまった。

こんな自分がまともに就職できるわけがない。

その日から3日間「39度」の熱を出し、寝込みました。

その間、完全に脳みその活動は停止し、
ただ、ぼんやりと、実家の部屋の天井を眺めていました。

ひとりでに涙が幾度も頬をつたり、そのたびに布団で拭いました。

自分は自分の力で生きて来たわけではない。
生かして貰ってきたんだ・・・。

そんな言葉がぐるぐると頭の中を回っていたような気がします。

その覚醒から遡ること5、6年前、時は1990年頃

まだ10代半ばの僕は私立高校に通いながら、
プロのギタリストになる「夢」を胸に、来る日も来る日も、寝る間も惜しんで、
それこそトイレに行く時さえ、
ギターを弾きまくる毎日を過ごしていました。
多くのフレーズを日夜、出来るまで弾く。

何十回でも何百回でも、繰り返し、
例えば、学校の定期テストの直前でもそれは行われていました。
当然、勉強らしい勉強(全ての意味で)は一切せずに、
ただ、ギターの指板に、自分の指をせわしなく走らせるだけの毎日だったのです。

「夢」を追いかけているんだから、

それで良いじゃないか・・・。

その生活が正しいことである、
と必死の思い込みながら。

笑わないでください…。
私はその当時、いわゆる「早弾きギタリスト」として、その身を立てることを夢見ていたのです。

とにかく、テクニックを磨くこと、
そして最高のギターソロを弾きまくること、

理論、コンポーズやアレンジ等、音楽的な成長より、
楽器の習熟(正確にはメカニカルな鍛錬)に没頭していました。

今思えば、音楽を奏でる、音楽を楽しむというよりも、

格闘ゲームで最高難易度のコンボ技を決める
そんな鍛錬に近かったのかも知れません。

それだけに半ばアスリートのような、反復練習が必須でもありましたし、
練習をこなしてさえいれば、「努力している気分」に浸れもしたのです。

本当に才能があれば、
その鍛錬を音楽表現に効果的に活かすこと、
何より良い曲をたくさん作ること、
それらの活動に様々なリソースを割けたでしょうし、

何よりも、その「プロギタリスト」になるための具体的、且つ、
積極的に、様々なアプローチ(コネ作りや認知度アップ活動)を求め、
外に出る機会を増やしたことでしょう。

そして、別に当時の「時代遅れ」の早弾きギタリストを選択したことがダメであった、と言う話では勿論なく、
力ある人はどんなジャンルやスタイルの選択でも立身出世したわけで、
自分は「何ひとつ社会に問いかけない」「何一つマーケティングしない」ただの早弾き小僧であったところが救いようなく痛く、

まさに才能の欠落の所以がそこにもあったのです。

さらに言えば、
先にも言いましたが、
ただ、弾く、と言う行為を一定量・時間してさえいれば、
「やるべきことをやっている」気になり、
例えば、友人とも夜遅くまで遊び、
女の子との合コンにも顔を出し、
深夜バイトの後は朝までテレビを観たり、
漫画や雑誌をダラダラと読む、

そんな「楽なこと」は喜んで享受し、
ギターだけに没頭している、とは言えない日常も送っていたのもまた事実です。

恐らく、同じ時代にプロを目指し、
今現在それできちんと食べられている方は、先に述べた、音楽や楽器の習熟を多面的に且つ、効率的に出来ていた人達だと思いますし、
少なくとも、自分のように音楽を「自堕落な生活の一要素」のような位置付けにはしてはいなかったと思います。

自分が多くの時間的な犠牲を伴いながら、ひたすら朝から晩まで「演奏技術」を磨いたことは事実ですが、それがプロミュージシャンの道とつながる方法論でなかったのは結果をみれば明らかですし、

誰も聴かない、聴きたいとも思えないクオリティの粗末な曲、
時には曲にもなっていない、断片のようなモノを作り、
それらの出来栄えをただ自問自答するだけの日々を過ごしていた訳ですから、
才能以前の問題であったとも言えます。

音楽含め、芸術家だけではありません。
文学も、おそらく演劇や映像も、

何かに成りたければ、成し遂げたければ、
そのゴールに向けた「生産的で着実に進歩する歩み」が必ずや必要だと思われます。

作品や成果、自分を証明するポートフォリオも必要です。

これは例えば、サラリーマンだって同じです。
ただ頑張っても偉くはなれません。
偉くなるための、その会社の「セオリー」や「不文律」を着実にこなし、一定の「成果」を挙げる必要があります。

そう言った意味で、
当時の自分には到底「プロギタリスト」になる力、賢さ、知能はありませんでしたし、成果と呼べるものはありませんでした。
たくさんギターは弾きましたが、それは価値を生み出す作業にはなっていませんでした。

はっきり言ってしまいましょう。

22歳の冬、
そう、39度の熱にうなされた自分は、
「就職活動開始!」の合図と共に訪れる、社会的・時間的リミットの到来を以て、問答無用で覚醒を余儀なくされた、
そんな自分は、

それまで、何年にも渡り、
ただ、学生、という護られた身分の庇護のもとで、

現実逃避と現実の狭間で「夢うつつ」の世界を生きていた、

ただ生かして貰っていたに過ぎなかったのです。

つまり本当の意味で「夢」など抱いてはいなかったのです。

本当にギターや音楽で生きるためにどうしたら良いか、
を詰将棋のように着実に「行動を以て理に変える」作業は一切行わず、

大学を出たら自分の力で稼ぎ、生きていかないといけない。
しかし、自分はギターでは到底稼げない。
ただ、その現実だけが眼前にぶら下がっていたのです。

つまりそう、
大学受験の勉強をボイコットし、
「自分にはギターがある」などとウソぶいたのも、
大人や友人達に、君は将来何になりたいんだ?と聞かれ、

答えに窮したのも、

全部、現実逃避という「甘え」の言い訳だったのです。

今だから言いますが、  

これはとても最低のことです。

親を筆頭にどれだけの人を心配させてきたか、
どれだけ無駄な投資を自分に課してしまってきたか・・・。

何よりも、
「夢」を持つことの表向きの尊さのようなシロモノを盾に、
本当の意味での地道で正しい努力や、他人への思いやりを二の次にする、
独断的で我儘な生き方を選ぶことで、

いつしか本当の自分さえ見失ってしまい、
本当は作品を作っていないのに、作っているふりをするような行動

夢をたぐり寄せる努力などしていないのに、

さも、それに邁進しているかのような演技・・・。

つまり、その夢=幻影にしがみ付くだけの時間を過ごしてしまうこと。

それはとてもよろしくない、
まさに不誠実な現実を体現していたのだと思います。

間違いなく、
何かに没頭した経験だけは残りますから、
それで失った時間は決して全てが悪ではないと思いますが、

自分や他人を騙し始めた瞬間から、

それは間違いなく悪だと言えると思います。

自分は夢を諦める何年前から自分を騙し始めたのか、

もうあまり覚えていません。

自分はこの悔恨を今も尚、心のどこかに持ちながら生きています。

しかし、だからこそ、

同じ種類の人間を見分ける力も身に付きました。

つまり、

「夢」を語り、
あまつさえ、それを応援する善良な人さえ食い物にしながら、
その実、それを現実に手繰り寄せる為の行動や努力とは、
決して真摯になど向き合わず、徒にただ時を過ごしている人間が、
わかるようになりました。

だから言いたい、
何かを目指し、「夢」を抱いていることを糧に生きている人に。

今、表向きは何かを目指しているが、
それは、もしかすると、
一人歩きした「プライド」や「体面」を取り繕う為の欺瞞に成り代わっているかも知れないから。

(しっかりと道を歩む努力を日々続けている人は読み飛ばして貰いたい。なぜならあなたのそれは「夢」ではなく「現実」だから)

夢を見るな、
とは決して言わない。

しかし、賢くあってください。
しっかりとその道程を俯瞰してください。
多くの作品を生み出してください。
そして、それらを世に問うてください。

公の目を通した、今の自分の立ち位置を把握してください。

必ず家から外に出てください。
時には大人と話ししてください。

人脈を作ってください。

先人と直接話をしてください。
そのための機会を作ってください。
直接話して「セオリー」を盗んでください。

そうして得られた「社会の評価」を心の糧に、
さらに作品を改善できるのならば、そのまま進んでください。
もしくは、例えどのような低評価であっても、
本気で自分を信じ、コトを成す為の努力を正しく続けられるならば、
続けてください。

周りからの評価を以てしても、自分の行動や中身が何も改善されない、

もしくは、
他者から何がしかの評価さえ貰えるフィールドに立てないなら、
評価や環境の変化で「やる気」さえ失うようなら、
そもそも、外界に自分を問う勇気さえ持てないならば・・・。

それは「夢」を見ているのではない。

「夢」を餌に、

今ある君の前の「現実から逃げているだけ」だ。

ゆめゆめ忘れないで下さい。
あなたのその生き方、
それは時間というコスト、

お金のコスト、

あなただけのコストじゃない、

周りの人達、あなたを愛してくれる人達全てのコストとなっていて、

そのまま放っておいたら必ず、
返せない借金のように積み重なり、
あなた自身に無慈悲に襲いかかる、ということを・・・。

~ここまでお読みいただきありがとうございました。~


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?