人は物語でできている

他所様のnoteを読んでいると、ときに妙に嵌まる言葉に出会うことがある。
つい嬉しくなってコメントをしてしまうのだが、ホントよくないよね。
それが筆者の物語とは、まるでお門違いかもしれないのに。
それでも筆者の迷惑を顧みず、ついつい吐き出してしまうのさ。
それはすでにワタシだけの物語って分かっていてもさ。
ワタシ独自の物語だけど聴いてほしくなるのさ。
だって人間だもの・・・

>見たことでも聞いたことでも、一度自分の中で咀嚼すると次に口から出るときには「物語化」してしまう。

アサミサガシムシさんのnoteより

今回、嵌って物語化してしまったのがアサミサガシムシさんのnote。
このセンテンスを読んだとたん、あれやこれや妄想(物語)が広がっていった。人はツボに嵌まると物語を創り出してしまうんだよね。

世の中にはありとあらゆる事象が存在している。
「蝶が飛んだ」でも「花が咲いた」でも「雨が降った」でも、あるいは「人が死んだ」でも・・・ただ事象として存在している。
それらはただそれだけのこと(事象)なのだけど、人はそれを見聞きしたり出会ったりして、それを感知して取り入れたなら、たんなる事象ではなくその人の物語になる。
「人が死んだ」。たとえば「家族が死んだ」でも、単に人が生物的に死んだという事象なんだけどそれだけじゃ済まない。ありとあらゆる物語が創作されていく。
「花が咲いた」という光景から創り出される物語だって人によって違う。
単に「きれいだ」と感じるだけの人、昔みたその花から思い出に浸る人、人によって違うだろう。
同じ事象を同時にみても人によって違う物語になるのは、人によって関係性や経験や思い入れが違い、感性や好みが違うから。
経験や思い入れや感性やその人独自のなにもかもをまとめて「魂」とする。

ある事象は、その人にinputされたとき、その人の「魂」によって物語化されoutputされる。

あたりまえのことを、あえて言っているのかもな。普通のことをさ。
物語がみなそれぞれに違うのは、人によって独自の魂を通過させるから。
同じ小説を読んで(input)も、人によって違う感想(output)をもつ。
同じ景色を観ても(input)も、人によって違う思い(output)を浮かべる。
そもそも魂に触れないこと、物語にならなさそうなものはinputしない。
小説でも景色でも何の感想も感情もない、物語化されないものもある。

写真なんかでもそう言えるよね。
なにかを撮ろうとするとき、世の中にあるあらゆる事象・存在のなにもかも全てを撮ろうと思うわけじゃない。
なにかを感じた事象を切り取って撮影する。
その時、ただ在るだけの事象をその撮影者が物語化しているのだろう。
それだけで完結しているのだろうか?
物語をさらにそれをnoteにupしてoutputしようとする。
その写真を観る人も、もしその人のなかの魂に触発するなにかがあれば、その人の物語化が始まる。
そうしたときのoutputが単に「スキ」なのか「コメント」なのかだけどoutputされる。
それは撮影者の物語とは別の物語なのだけど、撮影者もその物語の広がりを受け入れる。

人はなぜ自らの魂によって創られた物語をoutputしたくなるのかは、わからない。でも実際にoutputされている。
SNSの普及によってoutputの機会が膨大になり、実際にoutputされまくっている。
outputして他者に受け入れられればほっとする。
受け入れられなければ不安になる。
物語のoutputは、魂の拡散なのかもしれない。
なぜ、人はそれをしてしまうのか?
集団でなくては生きることのできない人の性ゆえか。
人と繋がらなければ生きていきない、という宿命ゆえにか。
そんな宿命のために人が物語を創作し、魂のoutputなのかもしれない。
人と繋がるために。
それとも物語化してoutputすることが自己の確認をするためか?

傾聴のことを考える

話し手はその人独自の物語を語る。
話し手と関係した他者(事象)は、その人の魂を通してその人独自の物語となる。
その物語はその人独自の物語としてoutputされる。
その物語を他者に理解されようとoutputされる。
理解されればここで生きていていいと思う。
理解されれば自己が自己でいられる。
「傾聴者」はその人の物語をそのまま受け入れる。
「傾聴者」は傾聴者自身の物語で茶々(アドバイス)をいれない。
その人の物語の邪魔をけっしてしない。
それは、その人の存在を認めるため。
存在していいとただ聴くことで伝えるため。
その人が居てもいい世界だと実感できるため。
それが「傾聴」ということ・・・かもしれない。



あ、、、、独自の物語り、すっきりした、笑

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