その悲しみに暮れる人もそうでない人も同じ時を過ごしてほしい

あの「集い」の夜から2日経った。
まだ考えている。
あの温かな空気のなか、ボクがそこに居たことを。
「集い」は、after the rainという会が主催だった。
その会の代表は言った。
その悲しみに暮れる人もそうでない人も同じ時を過ごしてほしい、と。
だから、その悲しみを知らないボクは末端のスタッフとして参加した。

結局ボクは何も発言しなかった。
何も言えなかったし、何かを言えるとも思えなかった。
もし指名などされたら、頭が真っ白になるだろう。
ボクはその悲しみを経験したことがない。
どれだけ分かろうとしても、分からないと思う。
どれだけ頷いて聴いていても、分からないことを見抜かれているのだろう。
共感などできるとは思えなかった。
共感できる、など嘘としか思えない。
共感しよう、なんて軽薄な台詞がどの感性が言えるのだろう。

あの温かな空気が熟成されるほど疎外感を感じた。
参加者から、当事者が少ないんだなぁ、という言葉を聴いたとき氷ついた。
昔のあの光景が甦った・・・

保育運動の全国大会、障がい者の子のことを学習する分科会。
本をよみ尊敬する講師がいたので参加した。
手を挙げ発言することにした。
参加者が振り返る。
「自分は障がい者の子を持つ親ではないのですが、、、」と言ったとたん、
全員がそっぽをむき、講師は横を向いた。
ボクはそこに居るべき、居ていい人間ではないと感じた。
生まれてはじめて差別感を味わった。
居たたまれず、そのまま退出した。

トラウマなのかもしれない。
あの瞬間が鮮明に浮かび上がり、ことあるごとにフラッシュバックする。
それでも代表は、その悲しみに暮れる人もそうでない人も同じ時を持って欲しいと言う。
もしかしたら、あの日障害者の子がいることがなんなのか知りたいと思ったボクに言ってくれてるのか?
知ったとこで何になるのだ、とオミットされ退出した未熟なボクに言っているのだろうか?
だからといって、当事者でないボクにはその悲しみは分からず、なにも言うことができず、
悲しみのドン底の一人に、あんたには絶対に分からない、と言われるかもしれない。

全部認めます。
黙って受け止めます。
ボクにはわかりません。
でも側にいさせてください。
もう昔のように退出はしません。
何もいいません。
黙っています。
話を聴かせてください。
この時をともにさせてください。
この温かさをともに感じさせてください。
あの豊穣な時を、あの空気を醸し出せる、、、
そんな慈愛をもったあなた方とともに居させてください。
ひとりの人間としてそこにいさせてください。
いつか当事者、非当事者という関係でなくなるまで。
その関係が遠くに置き去られるまで。
なんの意味を持たなくなるときまで。
ただのあなたとワタシになる時まで。
いつか一緒に笑えるときまで・・・

代表の言う、、
その悲しみに暮れる人もそうでない人も同じ時を過ごしてほしい、
は、こういうことなのかもしれないと思った。


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